春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

みかんと氷砂糖を1日1回ひっくり返す毎日

ここ二週間好きなだけ食べて好きなだけ飲んでいたら、きましたきました。胃痛あり。
するすると力が抜けていく感覚。
実はお酒があまり好きではないのかもしれない。いや、好きなんだけど、相性が今いちなのかな…なかなか、昔のように過ごせなくなっている。

それでも、この人とゆっくりお酒を飲みたいなぁという人は何人か居て、わぁぁー!じゃなくてしっとりと過ごしたいなって、身体と相談するとそんな結論に達するのだ。ひとりで飲むのもいいなって。
【身体と相談する】という選択肢があること自体数年前の自分はびっくりだね。
こうやって年を取っていくのかな…
まぁ、でも、好きな人が笑ってるのがいい。そんで、私のことを思い出してくれたりするとただただうれしい。それだけなような気もする。お酒こそ、楽しいしかいらないので、楽しくないなら飲む必要もないなと、我慢出来ていく自分に少しの寂しさを覚えながら過ごしている。


ゆっくりゆっくり、話しながら整理していることが多くて、話して自分を知ることがたくさんある。昔より、話すようになったのかなぁ、なんだろ。話すのが苦手だから話したくない…(と、打ちながら苦手だからじゃないな…、私と話しても相手がたのしくないだろうな…と思うから2人で遊ぶとか女の子とも男の子とも怖くてしてなかったんだ!と。自分なんかが…って奥底にあるんだなー)と思ったり今もするけど、ゆっくりを許してくれるなら話したいなぁと思うことが多くなった。考えると知ることって違うんだなぁと、ここにきて。
あと、想像するより、みんなずっとやさしい。



前回のブログを書いて、それと同時に生活にも変化が起きて、それをどう受け止めればいいのかわからない自分がいて…。となると、これからは「素直にならないことが罪」みたいな新しい悪を意識することになるんじゃないかと思った。優しくされることにまったく慣れていないことが、悪になるんじゃないかと。
愛し合いたいと書いてみて、愛し合うとはどういう状況なんだろう?と。

ひとつずつを掬って覗いて観察してまた元の場所に戻す作業を繰り返している。


「まさか、自分がこんなに疑問を持つようになるとは思わなかった…」
「やっぱり、自分には難しいよなぁ…」
未来を描く人と未来を作る人は違うなぁと考える私は、卑屈になることも蔑むこともなくていいと思うのに、とっても卑屈になってる自分がいるのがまだまだだなぁ。
私は完全に未来を作る人だ。描く人にとても憧れがあるけど、作る人がいないと未来は作れないし、描く人はもっと好きなように描いて欲しい。縦に切ると横に切るだと、役割が変わってきて、もしかしたらこの場所は横の方がいいのかもしれないなと、もうすこしいろいろできそうだなと、今日話していて思って。
でも、その違和感があることでいろいろしたいの反面、この場所には居られないんじゃないかがあって。自分がこだわってるのはなんなんだろうか…と、ループにハマったところに駅ビルの中におしゃれにつくられたお店を見て、
「あぁー、この店がここに入るんだ」
とちょっぴりの羨ましさを持ちながら、自分には何が出来るんだろう…を考える。
会社の規模は?お金の使い方は?企業とは?
私達の目的とは?
もっともっとやらなきゃ、もっともっとつくりたい。
仕事が生きるになっているじゃないか。私も十分そうだよ。

なんか、言い聞かせちゃう。


普通は自分で作るしかないよね。
私の普通。


映画をみるのと同じように、ケーキを作る動画を見れてしまう。美しいなぁ。美しい!
ゴム手袋に腕時計をしているのがグッとくる!って言っても誰にもわかってもらえないんだけど、好きになるポイントってそういうところだよね。
その人のことを知れてよかった。
私は行きたい場所が増えたし、逢いたい人が増えたので。
こうやって、まだまだ夢のような感覚を持ちながら生きているのは幸せなのか不幸なのかわからないけど、刺激をいろんなものから受け取れる人間である、という点においては良いことしかないんじゃないかな。ふふん、へへん。



なので、今日はケーキを作ろう。ひっさしぶりにスポンジを焼いてみる。


何が欲しいのかわかっているのだ



先週は忙しかったなぁ。
と思っていたらもう今週もおわり。何ができてるんだろ?何か残したい…!と考えながら12月を駆け足で進んでる。
なんだか、どんどん今年を終わらせている感覚。



文字だけで全てがわかるなら、いいな。
わからないから、触りたいな。
求める作業も求められる作業も、目が合って照れたり髪の毛をなでたり、そんなのは「女の子」の時に終わらせておくべきだった。
(ストッキングを素敵に履きこなす10の法則、プロローグより)


愛されたい。優しくされたい。
1番にして欲しい、とか、求められたい、とか。
ひとりでいるより、ふたりでいて孤独を感じる方が嫌だ。とか。
あー、それだったんだ。私はただただ愛されたいのだ。許して欲しいんだ。

本当は、それは親に対する気持ちだったんじゃない?と言われてもピンと来なかったけど、私の帰省に対するネガティブさや、家系にまつわるあれこれを思い出すといろいろ辻褄が合ってしまう。無意識の中の意識。ないがある。
私の生き方を彼に話した時も、そんなにびっくりするんだ?とこちらがびっくりしたくらいなので、きっと彼と私の家庭環境はかすりもしないくらい違うのかもしれない。
確かに、私はいつも彼と彼の家族に逢うと、家族だなぁと思う。「これが家族か…」って。
あたたかくもあるし、強烈に他人だ、とも思う。
何も出来ない自分に苦しくなったりする。

こんな歳で子供もいて、それでも全然解消出来ない部分が、考えれば考えるほどこだわりとして大きくなっていって、自分でバカみたいに不安を作り出しているんだけど、どうしようもないのだ。苦しいし。
認めてほしいし、安心したい。
急にいなくなったりしないでほしい。
自分だけをどろどろぐちゃぐちゃでいいから愛して欲しいと思っているのかもしれない。
それは、今、目の前にいる人じゃなくてもいいのかもしれないなって、話しながら思った。
そういう人がいたら、きっとその人だけでいいし、いないなら分散させて自分を保とうと思っていて、やっぱりそうなると倫理的におかしいよね、契約的にそれは違うよねって話になってくる。
そもそも、自分が愛してあげられればなんにも問題ないんだけど……。
あー、、、ここで子宮と会話するとか、自己肯定感の押し売りとか、そういうものに近くなるんだ…!とはた気づく。
なるほど。


新しい生き方なんてない。ただ、何を選ぶかだけなのに、、新しい形を探してばかりいて、ほんと、やれることをやるだけなのに、アカルイミライを想像しようとしてしまう。
わかった風で全然わかってない。じゃぁ、どうすればってところまで、全然いけてない。

でも、自分で選べるってことは知ってる。
選べる場所にいるし、自分が選んでいる。という自覚だけはある。
だから、もうすこしだーって思って、逃げないで考えてみる。



ただ、でも、やっぱり、愛し合いたいな。

セーターデビューした日は安ダッフルデビューの日

12月になってしまった。

冬物を完全衣替えしようと衣装ケースを開けたら思いのほかセーターとカーディガンがたくさんあって、あわあわ。
広げることもできずまた元の場所へ戻して、とりあえず取り出しやすいところへ衣装ケース入れ替え。
なのに更にセーターを、あとダッフルを入手。ずっとシンプルとか大人とかを意識してたのに、なんか…目指せ20代!みたいになってしまった…
そして、冬といえばプリーツスカート。プリーツスカート一択で過ごしたいくらいなのだけど、洗濯するにもした後もお手入れにちょっと手間がかかるので、夏よりもすこし多くの余裕を作らなければならないのが寒さと相まって 好きなのに嫌い…起きたいのに起きられない、触りたいのにこわい、みたいな…なんか宇多田ヒカルみたいな感じ。。あぁ、サンタさん!良いアイロンがほしいよ…それか、ミシン…!




30歳から生きるとは?を考え出すのはめちゃくちゃやばいと言っていたけど、ずっぽり私も30代で生きるとは?にハマってしまったひとりであります。特に今年。御年34歳。
ほんとうに試行錯誤だし、トライアンドエラーだし、一気にうまくいくことなんてないし、それでもやらなくちゃだし。
なんか、もうさ、そうでしかない!ってなった。




強烈に女でいたいのに女性に対してとてつもない嫌悪感も持っている。
男の人と対等でいたいと思う反面、圧倒的な差を見せつけて欲しいとも思っている。
誰のものにもなりたくないのに、誰かに支配されてみたいもある。
絶対に平等ではない。ゼロイチ思考とはまた別の(と思いたい)極端な脳みそ。


影響されてなのか、大きな流れがそうなのか、どちらにせよ、今の自分がまたすこし明確になったような、見方を変えたようなそんな感じ。
ひとつずつ、こうならいいなぁを形にして、それを誰もが使えるようになる。する。
誰も敵ではない。そうなのにな。


四井さんと家入さんの話をこの数日間の間に聞けてよかった。
地方創生も故郷も同じだな。
真逆の場所にいても同じものを作ることはできるんじゃないかな。
生きることを想像している人がすきだ。
そして、それを実践している人。




ウイスキーに紅茶のリキュール入れたののんでいる。ロックで。
ぺろっとなめて、とろんと甘い。


やっぱり冬は円グラフのイメージだなぁ

ほらほら、って 簡単に見せているだけ

自分に音楽をやらないという選択肢が増えたことにびっくりしている。


触らないと確かめないとどんどん薄くなってしまう。
そのスピードが、前よりも早い気がする。






生活とは。





AM5:26(何日か前の)

毎日キャベツを食べている。
今日はお昼も夜も。見る人からすれば、それを食べるくらいなら食べない方がマシとされるカット野菜。キャベツはバストアップに良いと言われているので期待です(体重よ減ろ)

どこにいればいいのかわからなくなり闇雲ドライブしていた何週間か前と、しかし、日々の仕事のハードさで身体が動かなくなりそれさえできずにどうしようと思っていたらひたすら眠ってしまう。という毎日がやってきて、
眠れない…から→眠すぎる…なんて、なんて、極端なんだろうって。ぽつり。
それでも仕事はよくやった。いや、やっている。
仕事のことはほんとうにいろんなことがあるし、気持ちの変化も感覚もがらりと心機一転した気分なので、別で残しておきたいな。


ここ1.2ヵ月は昔好きだったものや、昔から好きだったものがぐっと近づいた日々で、再確認する。みたいな状態が続いている。
「やっぱり好きだった」や「好きでよかった」は自分の生きてきた時間がなんだか認められたみたいで(というか、自分の中の安心感か?)、
私というぐにゃぐにゃで曲げても折れない信念みたいなものがはじめて折れそうになって、私がおかしいのかも?と考え続ける時間の中のほそーい光の糸みたいだった。
無意識の中の意識が、そうさせているのかも。
そうじゃないと私は生きていなかったかもしれない。


人生は短いな、と いつも思う。
80年生きたとしても、自分が80才になった時、楽しく生きる才能がないような気がする。
今なら、っていつの瞬間も思っていて、それは今なら生きれる…みたいなそういうもので。
今なら楽しめるし今なら考えられる、今ならひとりでやれる。
だから、今やろう…!みたいな……。
誰かのリズムだと死んでしまう、そんなような感覚。

だからか、誰かの時間を自分の時間に当てはめてはいけないな、とすごく思うし、そうしているのではないか?と考えると とても怖い。そうなら誰とも一緒に居られないのではないかな?って、どんなに平穏を保ってもどんなに楽しそうにしても、「もう壊れている」が頭から離れないでいる。
壊し続けることしかできないのか?
これは本当に壊れているのか?
取り繕うことから生まれる平和はあるのか?
愛とはなんだろうか?
触れられたくない人と触れて欲しい人。
一時期の感情なのか、それとももう迷いもなくなってしまったのか。
 


昔のことが一気に押し寄せてきた。と書いたけれど、そういう時、自分の中で変化が起こる時に多いなと思う。
最近の心境の変化ってなんだろうな…って考えてみたら、いやいやとってもおおきいのがありましたわ。

こういうことをスムーズに出来る人に憧れる。
自然と年を取れる人に憧れる。

なんて不器用なんだ。そして、それを愛しきれないでもいる。
なんて不器用なんだ。愛とはなんだろうか。

私はどうしたいんだろう。

オーノー計画はすべてミス

何度も書いては下書きして、結局新しい下書きを増やすだけを繰り返す毎日ではあります。。

話すことは苦手だけど、話したくないわけじゃなくて、
私はとても話したいから、話すことが下手なのが悔しいと思うし、怖いけど話そう!と思うんだなって気づきました。

みんな笑顔がいいなぁって、笑ってるみんなの顔を見て思って、だから踏みとどまったり決心がついたりするんだなぁと、改めて。


今年はお友達のおめでたい席に出席させてもらえることが多くてうれしい。
年齢的に多いというのもあるけれど、地元じゃない場所でこんな風に関係を築けていたんだなぁって、こういう時に思う。
だからすごいとか、なかったらだめ、とかの話ではなくて、日常から1歩飛び出た時に日常を振り返って御褒美みたいにぽかっとあったかい気持ちをもらえる。


出会いも別れも何回あってもいいんじゃないか?という気持ちと
ただ楽しく一緒に暮らしたいだけなのに…や、
自分が我慢すれば解決する話なのかな?
が、ぐるぐる。してる。
それは、何に対してもそうで…
ならばいっそ、全てから離れて小さな漁港に歩いて行ける場所で暮らしたいなって、
手放す準備をしよう、みたいな。


わざわざ壊す必要なんてない。
入る隙間はない場所にいようとしなくていいんだよなー。
みんなが笑ってるのがいいな。
悲しい顔を自分がつくることはしたくないな。


小さな決断を少しずつ。







そこにわたしはいない

ばばばーって、何かが決まって、何かが進んで…
そこには絶対に自分が必要なはずなのに、置いてきぼりをくらう感覚。に とても敏感になっている。

誰とでも。

近づくことも離れることも、一方的なものはどちらも暴力なのではないか。



乗り越えなければならないものがなにもないのに、全く自由ではなく、世界がどんどん狭くなっていくけど、これは抱きしめれば済む話なのか?抱きしめられれば、この澱んだ空気は流れ出すのか?考えてても全然わかんないや。


もう誰のことも苦しめたくないなぁ。ってだけがどんどん大きくなっていく。


ダイニングテーブルがやっぱり欲しいね。って話をした10日後には、こんな風になっていたり、不思議なものだなぁ。
もちろん、現実は「不思議なものだなぁ。」なんて呑気で穏やかな感情は一切なくて、
後悔なのか、この先の恐怖なのか、どちらとも言えないけど、決して爽やかではない色の渦巻いてるものが身体の中を支配している。

なにを頑張ればいいのかわからなくて、夕飯を作ることだけ変に意識してしまう自分が興味深い。


自由とは、?
優しさとは、?


エスパーでも、マザーテレサでもないので
私は私の優しいと思う優しさしか表現できない。それでも、他者を通して違う表現の優しさを知ることはできる。
感動したり、ホッとしたりして、その優しさも優しさなんだと知って、取り入れたり、自分もそうなりたいと願ったりして。
形はどんどん変わるって思ってる。

例えば、思考や嗜好、個人のすべてを言語とするならば…、
みんなそれぞれ言語を持っていて、話が通じないなと思う時、相手が何語で話してるのか知りたくて。
わからない。は終わりを意味する。
私は会話をしたい。
その時はわからなくても、勉強して、欠片を拾えるようになりたい。

必死で、私はこんな言葉をつかっています。
だから、あなたのも教えて!って言い続けてきた気がする。
でも、もしかしたら、はじめから興味がないのかもしれない。見えていないのかもしれない。聞こえてないのかもしれない。
そうなら、いろいろ合点がいくなぁ。



あぁ、そういえば働きたい場所があったな。行きたいところがあったな。やりたいことがあったんだって、ふと、これからを想像した時に頭をよぎった。
よくある、怪しいセミナーや自己啓発のあれではないけれど、
自分を喜ばせてあげられるのは自分しかいなくて、生かされてはいるけど生きることを決めるのは自分だけなんだって、
脆い精神の刃を持ちながらふらふらで戦いに行こうとする中での唯一の自分であるという感覚。

そうなると、私が居なきゃいけない場所なんてないし、私が絶対必要な人なんていない。
(ただ、君が私も含めた君の未来を想像した時、私は絶対に必要になる)。



いろいろこねくりまわしたけど、タイツを履いてもいい季節がきてうれしい。
パーカーとベレー帽を買ったので、今日のスタジオで着ていこう。
そして、あったかいカフェラテを買って深夜のドライブでもしよう。

そう思うと、1日も楽しいな