春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

離婚届を取りに行こうかヤマナカにパンを買いに行こうか

割とそんな二択。

階段から落ちましたって嘘ついて、旦那さんがいてくれてよかったね。はい、そうでした。って。
いなくなるとするならばそれは私の方なので、彼はちょっと頼りないけど優しい人だし、子煩悩なパパのまま。
それは、ほんとのことだ。


誰も悪くないんだった。ほんとうに。
もっと楽にもっと楽に。


ほんとうにほんとうのこと。ほんとうのほんとう。聞きたいってなんだろ。
何を聞きたかったんだろう。
話したいってなんだろう。


お店のみんなは優しいなぁ。この人たちに恩返ししたいなぁ。

新月の願い事

自分の思う自分らしさを大事にし続けられる世界でありたい。
尊重と選択が怖いものじゃなくなりたい。

家族や好きな人の想う人達まで愛したい。
私の思う優しい世界を表現したい。
ドロドロの沼と透き通った湖が同じ場所にあっても許される環境を、それに悲しんでいる人がいたら側までいって大丈夫って言えるようになりたい。
失くすことを怖がらない!幸せだけ願う!

信じたい、信じることだけしたい!


抽象的だけど、全部身近にあってずっと抱えてきたもの。

優しさをぶつけ返すみたいに

やっぱり、ただの「こーゆー時期」なだけなのかもしれない。

気づけばぼーっと父のことばかり考えている。
悲しくないけど、それにくっついてるいろんなことで泣けてくる。8月だからだ。たぶん、8月だから。

みんな優しいんだ。
私が受け取れないだけ。

ほんとは良い悪いの話じゃないのに。
正しさの応酬になってくものを見たり、自分がなってたりするのが気持ち悪い。
成果とか、やったやらないとか、なんだか疲れてしまった。
そうそう、ただちょっと疲れているだけ。

全部間違ってるし全部正しい。
だから優しくいたい。これしかあげられないけど、持ってるものは全部使いたい。




引き波の方が激しい。


うまく眠れぬ日々が普通になっていたけど、やはり、これは、良くないんじゃないかと。やっぱり、もう少し、眠れるようになれるものなら眠りたい、と。思っている。
まぁ、ずっと思っていたんだけど、諦めようとする力の方が強かった。薬もなぁ……薬を飲んだり病院に行ったりすることで自分がパキっと折れてしまいそうで不安だったのだけれど、そんなこともないかって気になってきたしいいかな。そろそろ。というか、これに耐えうる身体をもう持っていない。

「話したい」が「セックスしたい」だった場合、もっとデリケートなものになるのか。
なるのか?というか、デリケートなものにしなくてはならない?
「話したい」と「セックスしたい」、もしくは「お金を貸して欲しい」や「死にたい」とか。人によっては、重さが違うから、だから責めてはいけない(この場合は攻めるかもしれない)。
コミュニケーションを取るということをもっと慎重に進めなくてはいけない。もっと慎重に進めなくてはいけない?



私が1番大事にしてたのは、好きなら伝える(伝わるような何かしらをつくる)だったので、それをしない人とどう仕事をしたり、どう生活していいのかわからない。しないというか、自分が想像できない(それは自分には見えないもの)やり方の人と。見えないものはないもの。でも、私だけが見えてないのかもしれないって想像して生きる。
せめて欠片を。愛を。ないものかってさがす。
考えないと出来なくなってしまったものを大事に抱えている必要があるのか。
大事に抱えている必要がほんとうに?

裏を返せば、伝えることをしなくても周りに人がいてその暮らし方に違和感を持たずにここまできていることが少し羨ましい。
どこかで、頑張らないと好かれないと思っている。私が私のままであることは認められないと。あそこにいるとそう思うことが多い。

そう思うのも、私のままでもいいんだなって思える場所もあったからこそで。どこかで比べている。だから、羨ましいって思うのも変な話だし、私も持ってるじゃんー!で済む話なんだけど。


それで済む話じゃないのは家族だからだ。夫婦だからだ。仕事だからだ。今だからだ。
 紙切れ1枚なのに、私には重い。
話さなくても家族というなら、その基準に合わせるというなら、何もなくても家族であるとしよう。ならば、何にも無い方がいい。契約みたいなものが無い方がいい。
契約と言ってる時点で多分なんかおかしい。
 この話、ほんとうはみんなとしたい。どうやって生きてるのか聞きたい。
結婚している自分をすんなりと好きになりたい。認めたい。なのにできない。どんどん邪魔になっていってる。ずんと落ち込む時に仕事の話ばかり思い出すけど、結局はこれなんだと思う。

女の人がみんなお母さんやれるわけじゃないし、大人がみんな上手に会話できるわけでもないし、働くことが出来なくなったり、やれていたこともやれなくなったりする瞬間があって、それに死ぬほど心を痛めたりもしちゃうよ。
しちゃだめなのか。だめだめだめだめ、だめだめばっかり。
わかってる。だめだって。今できてないってわかってる。だから、つらい。だから、だめって言わなくていいじゃん。

みんなそんなつもりじゃないって言う
やりたいことやって欲しいとか、好きに生きてた私が好きだったとか、楽しく過ごしたいとか


言葉による影響が7パーセントしかないと言っていたけど 、7%だから他が大事なのか7%だからこそ大事なのか、切り取り方できっと友達になれるかどうかって決まりそう。
他人でしかないからどうするか。
分かり合えないからこそどうしようか。
言葉だけじゃ足りないから、だから言葉をどう使うか。

そこにこだわってる。私は異常にそこにこだわってる。だから、私の判断の仕方もおかしいんだけど。
この生活の何をもって成り立ってるというのかわからない。
それともみんなこうやって生きていて、わたしはできない人というだけの話なのか。


こういう時期なんだってなだめ続ける普通
それは壊れ続けているってことではないのかな?



賄いを食べながらぼーっと考えたこと

私の好きなもの、シンプルなものもすきだし、ごちゃごちゃしたものも好き。古いものもすきだし、新しいものもすき。

統一感ないなーと自分で思いながらも、「愛されてる」ものにビビっときたりしてるのかなーとか、思ったり思わなかったり。
愛されてるもの(ひとでも)って、愛されてるからこその愛みたいなものを放っている気がするんですね。
恋をするとかわいくなる、とか、子供が出来ると美しさが変わる、とかよく言うけど、そういうのもそうなのかも。作品も食べ物も愛されてるものをみんな(私か)求めているのかもしれない。

そうやって、大事なものを確認して、また大事にしたいって思えたりするんじゃないかなぁ。

私は冗談でも堂々と惚気られる人が好きなんだけど、それも同じようなことかなー。
本人を目の前に言うはずないじゃん。ってよく言われるけど、本人を目の前に言葉にするって美しいなって思うんだよなー。


愛かー、愛かー、なんだろなー(くだらないことばかり束の間の休息に考えている、もうすぐ35歳です)

フジロックに行ってないけどフジロックに救われてる人の日記のようなもの

夜と朝が繋がるとずっと夜と朝の繰り返し。
起きたか寝たか寝たか起きたか(寝てはいる)
やっぱりながーくぐっすり眠れる人が羨ましい。時間に追われなくてすむお休みの日を待ち望んで過ごしている期間。


フジロック小沢健二氏をYouTubeで見つけて何度も見てしまっています。
転換中のお客さんの話し声もステージへの期待と高まりもストーリーになっていて、見ているこっちも胸がきゅっとなってニヤニヤしてしまう。あんなに包み込まれる時間はないよなぁと。
それでいて、新曲も良かった。混沌と秩序が一緒にある世界へ。希望と絶望が一緒にある世界へ。
続けることというよりは辞めないことなのかな。。?生きることか、それが表現となることか。

いやぁ……、私はあういう時間が好きだな。

過去も含めてがやっぱり好きだな。

でも、好きだなって思えるのは今が好きだからで、今が好きだから過去も愛せるんだよなぁ。
自分に向かっているのにそれがとてもオープンなものであること、そういうものに憧れているのかもしれない。


そういえば、このブログをはじめた最初の日に思想哲学世界観を振りかざす的なことを書いたのですが、いまいち哲学ってよくわからないまま生きていて。2年経って、2年経った今の方が生きることや人生とは、彼や彼女の事情から自分の世界平和とは?とか、大きくなる子供を通して存在することとか、とにかく毎日考えていて。もしかしてもしかして私が日々考えていることをまとめると哲学になるのか……?と、國分功一郎さんの暇と退屈の倫理学のまえがきを読みながら思った7月の終わり。




考える、の整理をね。したいです。

深夜の蛯名さんのツイートでエモくなるのを許して

このブログはだいたいにしてタイトルを書きたいがためだけの中身で、今日も今日とて そうです。
  


マクロかミクロかミクロかマクロか。
にわとりとたまごどっちが先かのお話みたい。
最近考えてることはそういうことばっかりです。
そういう人間のなので、場所が重要なんだなって感じています。
あ、でも人もだ。
ほら、また場所か人かってなっちゃう。
ほんとはどっちもだよ