春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

コーヒーの入った水筒の管理は各々に任せたい

ミリ単位の違和感の積み重ねは大事な時に威力を増してどうにかしようと動き出す。

 

見てこなかったものを目の前にして、やっぱりだめだ、もうすこし頑張ろう、あなたの信念に付き合おう、など、葛藤が生まれたりする。

 

 

 

私は言うなれば、完全なる営利目的の人生だ。

それが社会活動でもあるし誰かを助けると思っているけど、そこの部分は割とどうでもいい。

でも、どうでもいいのは関わる人の利益を考えることが一番大事だと思っているからだ。それが当たり前だからどうでもいい。組み込まれているからどうでもいいと言ってしまうのかも。

表面を撫でるような綺麗な言葉でまとめられたものは上手いと思うが美しいとは思わない。

スポットが当てられない部分を見たい。

誰かを守ったら誰かは守れない、ひとりではひとりの想像を超えられない。それでも全員守りたい。両方の手に持つこと、みたいなものを好んで選んでいるのかもしれない。

 

 

 

そういえば、私はよく好きなものに囲まれていたい、と言っている

自分でも、ずーっと自分が好きなものだけをそばに置きたいと、その意味で使っていたつもりだったんだけど、そうじゃなかった。

腑に落ちることなんてそうそうないんだけど、あぁ、こういうことだったのかもって思えて もっと堂々といることにした。

 

 

会社じゃなくて企業になりたい。ってよくわからないままよく思っていて、今朝も起きてすぐそんなことを考えている。

 

こんなに個人が生きやすい中で、こんなに個人を存分に個人として主張できる世界で、それを使わないなんてことあるのか。それとも次の一体化への一歩なのだろうか。

 

 

歴史は繰り返す

ほんとうに?

休日の過ごし方

ぽっと呟いた一言から現実になることがあるのだ。

というか、だいたいのことはそうだ。

意識のない言葉に肉付けしてくれるのはだいたい自分以外の誰かだ。

 

相手に対して自分の生産性がないと想像してしまいフットワークがとても重くて、受け身であることが多かった。特に去年までの2年くらい。誰かの評価を気にしていたような、私になんて価値がない、と過剰な恐怖心をいつも重りのように持っていた。

だから、だいたい受け身で、、、まぁ、持っていたというか、今も少なからず持っているんだけど。

 

とはいえ、それは随分と失礼なことをしていたなーと、わかっていたけど やっと本心で失礼なことをしていたなーと思えるようになった。最近はそんな気持ちになることが多い。

 

例えば一緒にお酒を飲みたいとか、ライブをしたいとか、その空間にいてほしいとか、そういうことを言ってくれる人は少なからずずっといたのに、いやいや、私なんて…みたいな気持ちで向かい合ってもいなかった。それでも怖がりながら修行のように外に出て、荒治療を繰り返していて、それは良かったと思うし頑張ってたなーと思うけど。楽しんでいたかと言われるとなんかちょっと違ってたかもしれない。

今も自信満々!なわけじゃないけれど、なんであんなに全てに縮こまっていたんだろうなって思うくらいそうだった(周りから見たら変わらないかもしれないけどね)

 

 

不幸は纏ってないって言ってくれた。

不幸は纏ってないって今は言える。

 

 

 

 

 

 

 

撮影会という名の休日の過ごし方。

こんな過ごし方もあるんだね

 

って、このあともいろいろ書いたんだけど半分寝ながら消してしまった。

勇気を出してやってよかった。人と遊ぶことが気軽じゃない私だけど、人と遊ぶってもっとみんなで分け合うものなのかも!

 

なんて思ったりしてます。

もっと自分を使って遊んで、残したい。

思い出は一人じゃ作れないね

 

ぼーっとすることへの罪悪感

胃の奥に隠してたもやもやを必死に形にしようとしている人の掃き溜め文章よ

ほぼメモ

 

 

 

 

誰だって、自分一人が生きていくだけのお金は稼げるようになっているとおもう。

じぶんのお店を持つにしても、何かを運営するにしても、会社で働くあなたも、その人がその人らしくいたいと表現することはどんどんして欲しいし、特別守られてなくたってなんとでもなるように思えてきた。

だから、従業員を受け入れること、そのキャパで運営すること、誰かと一緒に歩むこと、の難しさやおもしろさをなんとか形にしたい。まとめたい。

 

 

 

反射的に反応することの無意味さ

 

 

全然だめ。もともと稼働率の低い頭だけど更に働いていない。

シャットダウンしてる。

 

不思議なのは、なんでみんな次の場所を欲しがるんだろう。ってこと。

私が極端なのか、概念を願い過ぎているのか、

やっぱり、ずーっとずーっと、どうすれば大きくなるか(一緒にいる人たちが満足するか)、どう使い切るかを考えている脳なのかもしれない。

 

どんな場所でも生き残る方法を昔からずっと考えている

 

家がなくなったことを確認したシーンにちょっと自分を重ねてしまった。

 

 

髪切った。が、誰にも気づかれていなくてひとりで「切ったなー、いいじゃんー」って心の中で呟いてる。髪の毛洗ったら思いの外すっきりしてて美容師さんグッジョブ!とお礼を言う。

 

毎日ぐったりなのだけど、調子よくないからだし、休みの数がね少なくなってるからだった。

週3回休めると家のことも仕事もちょうどいいなって思ってる人間が週1休みで生きてるんだからぐったりするわな。

 

 

そんな私もたくさん予定が入っていてたくさん人に会っている。お祝いできることのありがたさよ。いろんなおめでとうを直接伝えられることが日々の糧になっている。

 

 

そういうのだけ持って未来に生きたい。

私はもう、ほんとうに、そういう人間だ

 

 

ほんとほぼメモだね、ごめんなさい

なんでだろうと思う自分とおでこ付き合わせて唸ってる

 

今、ちょっと苦手な時間軸ですごしてるから、こんな感じになっちゃってんだなーって思う。

 

大阪万博、20世紀少年、オリンピック、ニッポンのカタチ

2025年

 

 

そういえばオリンピックロゴ問題とかあったね。

 

 

劇的に不安定でいちいちもっともらしく記録するのがはずかしい。

 

今日で最後かもしれない、ってことばっかり。

人生なんてそれの繰り返しなんだけど、終わりばかり意識してしまう。終わりは始まりだからなんにも心配することはないのだけど、単純に悲しい、、、みたいな気持ちは持っててもいいよね。

 

 

そして、今日も 今日で最後かもしれない音楽をする。

満開の桜の木の下で

いっそ、もう終わらせちゃえばいいのかなと思ったりする。

 

誰かの楽しいに当てはめた瞬間終わるダンス

誰かに楽しいを押し付けた瞬間流れるエレジー

 

私が滅びの呪文を持ってることをあの人は知らなかったんだろう

世界は終わって始まるということにあの人は触れたことがないんだろう。

 

 

 

つかれてしまっている。明日なに着ようかな

 

真夜中にひとりで

そこなしぬまのようだ

 

おなかがすかない、すぐ曇りガラスが占領したくなる。

遠い、そばにいるって確認したい。

 

 

 

 

 

 

ユキちゃんのうたは真夜中にひとりで聴きたいんだよ、と言ってくれた人がいた。

 

真夜中じゃないけど、暗い部屋にひとりでいるときに沁みてくるうたはそういえばずーっと、きっと死ぬまで好きな歌だなーって、流れてきた好きな歌を聴いていて思った。

 

 

 

 

最高の褒め言葉をもらっていたんだなぁ

 

もっと素直にもっと自由に時間に魔法をかけていきたい。

居住場所を認識するという意味での駅前

夢か現実かよくわからない瞬間がシュシュっと差し込まれている。

どこにいるのかもわからなくなるけど、駅前を通ると「住んでいる」ことを確認できる。

あの瞬間、現世と繋がったような気がして少し安心する。

なんだか最近、脳みその普段使わない部分を使っているような気がする。

 

セーターを買った。コートも欲しい。寒くなってきた。でも、寒い夜に散歩したい気持ちもある。綺麗なんだよね、空が。

 

 

 

たくさんたくさんあった出来事、話すのももったいないような、でもどこかに残しておきたいような、思い出のほこりを大事に大事に取ってまたしまうような、そんな日々。

 

 

 

函館にいた時みたいにうたった。

それを今やるってどういうことだろう?って考えたり、憧れ続けていた人のような気分でうたったら、昔の若さとパワーと知らなさ故の大胆なスピードと自信があったあの頃の自分に会えた気がした。

 

ありがとうさようならこんにちはを繰り返して生きていく。

 

 

 

today is 気分

 

思いは遠くて 想像は聞こえなくなるよ

don't cry 日々の暮らしはまだまだ終わらないよ

いつも 聞こえないふりで 毎日は過ぎていく

開いた、当たり前の言葉が、そう

 いつものように鳴る