あと、あんまり食べられない。
カレーを食べに行って、ナンをひとちぎりしたらお腹いっぱいになってしまい、どうしたものかと思った。こんな時に限って娘もちょっとしか食べないし…。
ほんとうに、みんな、こんなものを?(本当はことを?)と穂村さんになった気分だった。
そして、ひとちぎり目で満足させるポカラのナンもすごい。
なんというか、才能もセンスもないから考えつづけないと死んでしまう。腐ってしまう。
簡単になんにもできない。
楽になりたいときは楽になるプロセスを、楽しみたい時は楽しくなる方法を考えないとそうならない。手を抜くことを気軽に簡単にできない。
きっと、これだってある意味では異常だし、でも、私にとっては正常で、みんなそれぞれそういうものがあるってだけな気がしてる。
幸せを願うことは相手を変えることではない。
信じる。君の選択を信じる。
信じること、自分のために生きること。
頭ではいつも唱えてるのに、もう!
でも、あぁ、少しだけわかった気がする。
昨日はトリエンナーレの豊橋会場に行ってきて、ぐにゃぐにゃ迷路のような開発ビルを堪能してきました(途中でチケットを落としてスタッフの方に迷惑をかける…)。そこで1フロア使って展示してた小林耕平さんのがとても好みで、話し方も柔らかさも好きだった。一緒にやりとりしていた人もそうで、2人のやりとりがとてもいいなと思った。
声も出してけらけら笑って過ごした。
また見に行こう。
アートというものも、政治も、経済もよくわからない部分ばかりで何で判断すればいいかチンプンカンプンなところはあるけど、話すときの間や息遣いや言葉の選びかた、服装、ユーモアさや覚悟とか、どれかにピンとくるものがあって好きになっていて。
だから、やっぱり着るものやお化粧や選ぶものは全部私であるという自覚を持って過ごしたいなって。
ん、というか、自分であるという自覚がある人がすきなのかもしれない。
良い部分も悪い部分にも向き合ってる人。
向き合うことはつらいけど、向き合わないことの方が辛い。
待つ時間はつらいけど、待つ時間がない方がつらい。みたいなことを ある小説で読んだけど、ほんとうにそうだなぁ。
日差しが強い。
離れないと休めないのはとても効率が悪いなぁと思うんだけど、離れたら少し心が落ち着くということを知れただけでも実のある1歩。
カーステレオから流れる音楽はどれもこれも昔の曲ばかりです。