春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

歳が変わってひたすらねむい

ここのところ毎日バンテリンを塗って出勤するという満身創痍さではあるのですが、数日前に誕生日を迎えました。
だからか…みたいなリアクションはもう、全然、全く!欲しくないのですが、去年あたりからの身体の変化は相当なもので、こんなにはっきりと自覚することがあるのか!って自分に、自分の脳にびっくりしています。
まぁ、自分で出した信号を自分でキャッチしてびびっているという完全なる自己完結ループひとり遊びなのですけど…。



暑苦しいのはいやなんだけど、エアコンの風が直接当たるのもいや!みたいな。君は今どうしたいの?涼しくなりたいの?なんなのー、もう?どっちなのよー!みたいな。(実際は自分が嫌な気分になりたくない。一択のみなんだと思うけど)



偏っているかの確認をした。基本、偏っているのは誰しもそうなんだけど、偏っていることを確認した上でこっちを選びます。今はこの道を信じます。的な。
最近そういうことが多い。
考え方が違うのは当たり前として置いておいて、どう違うのかをすごく気にしているように思う。そこを知りたいというか。
でも、それってなんにも良くないことなのかも。なんか、浮気してるかもーって相手を疑ってるのと同じかもしれないなって。それは悲しいなと思った。
残る道というのは信じるという道しかないのかな。
んー、でもなぁ…ほんとはもっと話したいし、できることなら違いを語り合いたいと思っているのが正直なところ。違いってなんにも悪いことじゃないのになぁ。でもなぁ、そこを広い器で遊ばせてあげられないってことは、やっぱり私はカオスに憧れる秩序さんなのだな。




とはいえ、私が安心するものとはなにかな?と、小松菜を茹でながら、モロヘイヤを茹でながら、辛子明太子をちょいとつまみぐいしながら考えていました。

私には今まで、安心という意味では本当に大きく心に残ってる出来事が2つあって。(これはまた、違う時に詳しく書いてみようかな。)
この二つのどちらも父親が関係していて、実際いまだに父のことを話すと泣けてくるし、なんか変に感傷的になってしまったりするのですが。
それほど、私は父に影響を受けていたんだと思い出す度、思い知るというか。
父は、勉強はあまり出来なかったかもしれないけれどよく考える人でした。
相手のことを第一に考えて、家族にはとても厳しかったけど外の顔はとても優しい人で。
あぁ、でもやっぱり愛情という面ではこれでもかともらっていたのかもしれない。
大好き!とかではなくて、ただただ大きかった。

これを書いているだけで泣けてくる。
いきなりいなくなるのはほんとに悔しいな。
ぽっかり穴が空いたまま埋まってないや。


そりゃぁ、ファザコンにもなるなと納得しているもうすぐ夜の21時です。



ほんとうに、いつ終わるかわからない。
 その瞬間、大事にしすぎるくらい大事にしてしまうけど、それでもいいんじゃないかなって思うんだよなぁ。


父の話はまとめられなくなってしまう。

ということで、お兄さんとお父さんの間くらいの諸先輩方とのスタジオの為車を走らせ行ってまいります。(おあとがよろしいようで)