春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

コーヒーの入った水筒の管理は各々に任せたい

ミリ単位の違和感の積み重ねは大事な時に威力を増してどうにかしようと動き出す。

 

見てこなかったものを目の前にして、やっぱりだめだ、もうすこし頑張ろう、あなたの信念に付き合おう、など、葛藤が生まれたりする。

 

 

 

私は言うなれば、完全なる営利目的の人生だ。

それが社会活動でもあるし誰かを助けると思っているけど、そこの部分は割とどうでもいい。

でも、どうでもいいのは関わる人の利益を考えることが一番大事だと思っているからだ。それが当たり前だからどうでもいい。組み込まれているからどうでもいいと言ってしまうのかも。

表面を撫でるような綺麗な言葉でまとめられたものは上手いと思うが美しいとは思わない。

スポットが当てられない部分を見たい。

誰かを守ったら誰かは守れない、ひとりではひとりの想像を超えられない。それでも全員守りたい。両方の手に持つこと、みたいなものを好んで選んでいるのかもしれない。

 

 

 

そういえば、私はよく好きなものに囲まれていたい、と言っている

自分でも、ずーっと自分が好きなものだけをそばに置きたいと、その意味で使っていたつもりだったんだけど、そうじゃなかった。

腑に落ちることなんてそうそうないんだけど、あぁ、こういうことだったのかもって思えて もっと堂々といることにした。

 

 

会社じゃなくて企業になりたい。ってよくわからないままよく思っていて、今朝も起きてすぐそんなことを考えている。

 

こんなに個人が生きやすい中で、こんなに個人を存分に個人として主張できる世界で、それを使わないなんてことあるのか。それとも次の一体化への一歩なのだろうか。

 

 

歴史は繰り返す

ほんとうに?