カフェがなくなって、学ぶ場みたいになっているのに違和感がある
学びの場は作りたくないと思ってやってきた身としては、多分これが大きいかもしれない。カフェを存在させ続けることで自分なりにバランスを取っていたのかなーとかなんとか。
とか考えたけど、
どの部分を切り取るかで変わってくるなと思い、ぐー、くるっ、ぱっ
学びたい人もたくさんいて、その人たちに教えることは何ら悪いことではないし、むしろ両者ラッキーなんだった!
私はそれがちょっと苦手というだけのことである。
子供や母親ってどうしても商材販売相手になっちゃうのも、なんかちょっと腹立つので変えたい。
ある意味対極にいる。アンチってわけじゃない。そっちもないと比べられないじゃない?と思う。比較して選んでほしい。そういう新しい宗教。
人生はきっとつらいことがたくさんあって、それは絶対だと思うから、もっとひっそりと「生活」のそばにあるようなものとして、暮らしを彩ったり乗り越えるときに力になるようなものでありたい。
これも切り取る場面で同じになったり両極に位置したりするからなんとも言えなくて、だから目立たない方に肩入れしたくなる。
こういう話をあーだこーだしたい。おもしろいねぇ、そんな考えもあるねぇ、って。
あと、この状況になって改めて思ったんだけど、古いものが好きなわけではないのだという…
古いものの方が色合いがビビットだったりギラギラした感覚を受け取れるからすきなだけ。デザインの組み合わせとかもそう。
古民家改修とかにもほんと興味ない。が、必要ならやる。やるときは徹底してやる(やらないと気が済まない)から好きだと思われるのだと話しててわかったこと。
あとあと、はやく完成を見たいタイプなのでちょっとずつ進めるのも得意じゃないから、向いてないのよね。
そこで、私がやるべきこととは、?が見えてくるのだ。そうなのだ。信じて離れる信じて伝える信じて動く。
すごいねむいと思ったらあんまり寝てないんだった。それすら意識してなかった。
美容情報更新!歳をとることを楽しむための努力をルーティンに組み込む、そしてなにかを捨てる。
生き方とは。