春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

歴史を語り継ぐ人

節目の本人だったわたしはいつのまにか誰かの節目を見守る役回りになっていた。

 

 

レールみたいなものがあるとするならば、それの上にいたら絶対に会えないに人たちと出会えて、今もなお繋がって広がり続けていることをたまに確認できる時があって…この週末もそんな感じ。

 

自己評価が低いと言われることが多いけれど(この日も何人かに言われたけど、そんなかな?!)生きていたら忘れていくっていうのが当たり前だと思っているところがあり、歳も離れていて子供もいて遊び方も違う好みの音楽もかけ離れている人のことをわざわざ視界に残しているはずがないという感覚で生きているのよね。そんな中で覚えていてもらえたり、好きでいてもらえるって、なんというか、これもまたひとつのミラクルだなーと。

感謝しかなくなり、そこに居させてもらえることに精一杯お返ししたい、みたいな。

 

ラブリーラブリーラブリーというタイトル(すごくいいね)が彼を表しあの場所を包み込んでいたと思う。良き日でした。

 

 

 

最初に戻るけど、節目を迎え続けると物理的な数字と慣れにより自分の節目ってなくなるしどうでもよくなってくるんだなーと、しみじみ思った。あと、打ち込みながら思いついてメモ的に残したいので自分の話をしますが、生まれた場所が田舎すぎるので実家を出る前提で幼少期を過ごしていて、引っ越したり離れたりがすぐそばにあるから感覚が薄いのかも(こっちにきて実家通い率の高さに本当に驚いたものです)

地域性や年代、家系などでいろいろ変わるのかもしれないな、と比べてみて思った。

 

 

とはいえ、今を真っ只中で生きているみんなはいろーんな変化ひとつひとつに敏感で大事で、それを抱きしめて次の場所へ行くことを選択したという事実がもう美しい。

それごと抱きしめたい。みんなえらいし、みんなそれでいい。そのままで絶対大丈夫、となんの保証もできないのに思ってしまう←思考がたぶん死ぬ間際の人

 

 

 

 

おばさんおじさんは精一杯楽しんで生きるしかない。たぶん、そう。

そういうのを下の世代の人と会うことで思えたりする。で、それは上の世代の人たちが楽しそうに生きてるから思えることなんだと思う。

年代問わず遊んでくれるひとがたくさんいて、なんてラッキーなんだろか。

恥ずかしくなることはなにもないんだなー、目一杯おしゃれしたり、勉強したり、発表したり、もっと楽しみたいな。

迷うことも落ち込むことも面白がって、下の人達の希望というかセーフティネット的な場所にいれたらいいな。「目指すもの」いうよりも、大丈夫なのかも、自分にもできるのかもー、って思ってもらえる感じ。

みんな絶対大丈夫。そういう場所がいい。

 

 

じわじわと整理している。

じわじわと整理されてる感覚がすごく好きで、この時はだいたいにやにやしてる。

 

 

 

かわいい人だちばっかりで、かわいい人たちみんなにかわいいよ大好きだよって言い続けたいから元気に生きたい。というお花畑か超未来志向で過ごしている。これをどう人生(お金)と結びつけで仕事を作るかを考えることも大好きなので、大きく金は稼げないけど、わたしはまぁ大丈夫なんだとおもう。

最近やりたいことを考えすぎてて馬鹿になっていたのでよかった。ありがとう、みんな。