春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

ありふれた言葉の説得力に歴史を感じる

あるミュージシャンがブログのコメント欄でやりとりしてるのを見て、とてつもなくきゅんとした。合ってる。あの人にはぴったりのコミュニケーション方法だってグッときた。

いいなと思ったものをシェアする時、自分のコメントも上乗せして投稿ボタンを押す。

私はそれをミクシィっぽいなといつも思っている。

 

個人個人の小さなこだわりや想いがもう少しだけ、もう少しずつ、見えるように、伝わるように。って思っているところがある。

 

 

そういえば、好きな文章を読んでいる時、スクロールが紙をめくる感覚になる時がある。

手のひらで滑らかに導かれるように読み進めてしまうあの感動とときめきを誰かに伝えたいなと味わう度に思う。そこまで本を愛するとか考えていないけれど、文明の開化を噛みしめる時代を生きているからなのかもな!とか、ね!

 

 

金曜日のスタジオの帰り道、真っ暗な空の雲の切れ間から見えた月がとても綺麗で、

「真っ暗な空の雲の切れ間から見えた月がとても綺麗だった」以外の言葉が見つからなかった。語彙力が無い自分の問題とはいえ、調べてみたけどあの瞬間それよりぴったりのものは見つからなかった。

それも含めたあの日の時間に想いを馳せる人と友達でいたいと思った。

雨の後の空気は埃が落ちて澄んでいるように感じてうれしいなぁ(ほんとうのところはどうかわからないけれど)

 

 

 

 

桜といえば、感覚は今もGWなので、10年以上住んでるのにこちらの桜事情がすっと入ってこないのが正直なところ。毎年、もうすこし暖かくなってからだったような…って思っては見頃を逃すを繰り返しているかも。

これは、紅葉も同様である。

なのに、春物のなにかが欲しいし、髪も切りたい。身体は飛び出そうとしてる。体内時計?体内カレンダー?体内感覚がめちゃくちゃである。春が一番脳と身体のズレが大きいような気がする。。。しかし、これらは全て脳が引き起こしていることで、脳は脳で、私のいう人間の中でパターンを作り反応としての司令を出しているので、「ズレている」感覚すらただの反応であり、細胞単位の思い込みだったりするのだ。(?)

まぁ、なにが言いたいかというと、そりゃ体調も崩すわ…!ということです。

 

 

何年か前の写真を見たらものすごく髪の毛長くて(おへそくらいまであった)、もう戻れないんだなとしみじみ。いやー、もうめんどくさいな。くるっくるのふわっふわにしたい気持ちもあるけれど、今が楽すぎる。怖いから美容室に行くたび数ミリずつしか短くできないけど毎回もう少し切ればよかったなって思って、確実に数ミリずつ短くなっていってる。。。

こうやって年をとっていくのか…という思いもある。

「人生は毎日の積み重ねである」を実感する分、できないことは捨てていってる。余計な手間をなるべく省いて、心を込めたいと思うものに存分に心を込めていきたい気持ちが強くなってきて、今の私は、自分で持てるものがきっとすこし人より少ないんだなぁ、と、漠然と、でも確実な感覚としてそこに「ある」。

 

 

 

新年度からはじまる一番苦手な意味のない集団への参加が始まり、やっと小学生の親の感じが出てきたなと。もうメールでいいじゃん……しゅん。