春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

創造することの労力を考える6/17のごはん

玉ねぎオクラ入り豚丼

野菜スティック、レタス

冷奴

 

どうにも作れなくて楽チンメニュー

 

 

世の中の忙しいには「創造する忙しさ」と「創造しない忙しさ」があって脳の使われ方が違うから、時間の拘束や作業量が多いからといって「すべての忙しさ」に比例するとは言えないのかもしれない。

この二つを比べること自体無理な話で、創造しない(できない)人は徹底的に創造しない(できない)のでそっちの忙しさを知ることもできない

 

 

家事の話とかとも似ているなとちょっとおもった。創造のところじゃなくて構造の部分で。まぁ、なんでもそうだけど、知らないことを考えることはできない。更に、仕組みに興味がない人は置き換えるとかもしないのでどんどん知らないことを考えられなくなって経験が経験でしかなくなり言葉の意味がひとつのままなのでは…とか最近よく考える。

 

 

 

あと、毎日疲れているのがなんでなのか全部整理できた。説明できると納得できて楽だな。

しんどさは変わらないけど、わかることで諦めることができるのが簡単に諦められない人からすると救いなんです。

諦められない人の諦め方なんて、何いってんのって話なんだけど、そうなんだよ。諦められない人の諦め方なんだ。

 

 

洗脳されていない状態とはどんな状態なのか。

わたしも少なからず影響を受けて動いているものがあって、それを自覚しているつもりだけど、でもじわじわと染み込んで無意識に組み込まれていくものもある。洗脳=言いなりだと思ってるひとも多いけど、なんかそうじゃないよなぁ、、、今のわたしだって、着地点を今考えてることに向かわせようと無意識にしてたかもと、最近よく考えてるところに着地したことに気づいて思った。

自分を疑うことをずーっとしてて、それは自分を信じているからなんだって。

信じているから仮説を立てて検証する。信じているからそれが間違っていたり思った通りだったりすることに向き合える。 誰かのせいで終わらせるんじゃなくて、なぜこの状態になったのかを自分も入れて考えること。

 

誰かには自分も入っていて、誰かのせいにしないって、簡単に自分のせいにもしないってことだって、これはここ三年くらいでできるようになったことです。

 

誰かのせいにするのは簡単で楽しい。でも目的はそれじゃない。

 

 

 

まとまらないなりのまとめ。