なんか全部頑張るの当たり前だから、頑張るぞ!って言う時は散々頑張って開けた時や頑張り続けるためで、仕事も生活も混ざってる混ざってないとかじゃなく、そもそも何かだけ手を抜くって感覚をしらない。
故に上手くいったことも失敗したこともたくさんあって、苦手もできないもちゃんとしなくちゃ!ってなったり、完璧主義だと言われたりするんだなって今気づいた。
頑張るって言葉にすると誤解が生まれるかもしれないけど、頑張ってるから頑張ろうって思えるんじゃないかな。楽しいと思えるのも何かに打ち込めてるからで、それは頑張ってるからなんじゃないかな。
完璧主義でもないな、できないことができるようになりたいだけで、できない状態が悔しいだけ(これを世の中は完璧主義という?)
やりたくないことがあんまりないのは自分の可能性にまだ興味があるから、
でも、苦手なことはあるから、それはやって初めてわかる。。そこで新しい自分を知る。軌道修正する。
今やってることも今までと通ずるところはあるけどまったく未知の世界で、学校もろくに行ってなかった人間的にはもう脳がすごいことになっている。情けないかもしれないけどやるしかなくて、これは過去を書き換え続けている行為になっているかもしれない
自分のことを褒めるのももともと苦手ななんだけど、自分のことを褒めてあげる方が気持ちは楽になるし、他人にも優しくなれる。
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散々生きてきて、余裕がないと優しくなれないは絶対だ。で、優しくしたいのにできない…って、しばらくそんな日々を生きていて、それに自己嫌悪しまくっているのが今。意識しないと集中してしまう。弱い部分。
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自己嫌悪は楽だけど結局変わらないから抜け出す方法に「時間」以外の選択肢が欲しい私はあれこれしたい。
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褒めるは認める。私の思う褒めるは認めるのことだ。えらいねは知ってるよってことだ。
自分だけは自分のこと可愛がってあげたらいいよね。
自分でやるのが苦手な人は、お金を払ってでも優しくしてもらえる方がいいよ。
結果主義のところがある。自分にとって生き方は手段で目的じゃない。丁寧な暮らしをしたいために生きてるんじゃない。
その中の細かいひとつひとつを検証して実践して組み合わさった結果が世間では丁寧な暮らしと呼ばれるもの、になる可能性はある。
生き方や性格をどう知ってどう解釈して良い未来にしていくか。
死ぬときに楽しかったなって思いたいから何歳になってもチャレンジできる。
死を頭の片隅に置いている方が生きていることが身近になるような、、、言葉にすると歪んで見えるかな。すごく純粋でかわいいとも言えるけど。
ひとつだけ気をつけたいことは、寂しいを違う言葉に変換しない。
これだけ気をつけないといけない。
眠くなってきたので寝よう、おやすみなさい。