春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

エゴの中心を探す旅

自分の思うコミュニケーションの仕方で深めたいのか、「その人」と関係を深めたいためのコミュニケーションなのか、で当たり前だけど全然結果は違うものになるね。

まだ自分の気持ちのいい状態で自然とできるといいなと思ってしまう時がある。忘れてしまって期待しちゃってるとき。これに毎回反省してる。

 

 

家族に対するこだわりがだいぶなくなったけど、こだわりがなくなるって興味が無くなるってことでもあって(なくなるってことだと思っている)余計おかしな人間になっている感じが。。。何回でもやり直せるって思っているわたしのやり直し方は、世間に合わせるとやり直すには当てはまらないらしい。考えだすとキリがないから考えないというのが歴史の進化であろうか。

やっぱり向いていないんだなーの結論に向かいがち。だから辞めようとかそういう話ではないのだけど、向いてないことに多くの労力を費やすことを無駄だと思う思考もたぶん向いてなさに拍車をかけている。ような気がする。

 

 

 

モラルのポイントもずれているのかもしれないけど、それは全員ちょっとずつズレているから偶然対極の位置に立ってしまうときだってあるし(それが普通だと思っている)、ズレてることは共有できても、「じゃぁ、そこからどうしましょうか?」に進む人はズレを共有できている場合でも少ない(私の肌感覚情報)

 

 

 

きっと間違って家族になってしまった人っているな。夫婦より友達の方が良かったり、結婚に向いてなかったり、同居人とかビジネスパートナーとしての関係がベストだったり。友達夫婦とかよく言うけど、あれは完全に夫婦としての相性が良いからそうなれるのであって、友達としての相性が夫婦になっても持続できるとは限らない。

新しい家族の形とはすなわち諦め。だと思う私は考えることを放棄していることになるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

とかね、なんだかんだ言いつつ愛嬌最強説信者なので、次回はその表情を愛嬌として成立させるには何が必要なのか?を考えたい。