春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

何事も空きすぎると入口が高い壁になる

このブログもそう。

 

読み返すと同じことしか言ってない。読み返すと同じように毎年落ち込んでいた。

そうなのよ、疲れは出るんだよ。誰に言うでもなくじっとしていられるようになったことに少し成長できてるのかなー?と思ったり少し寂しかったりしながらクリスマスも大みそかもあるし一年は終わるし12月は大体節目なんだ、ってしみじみしている。アルバムやFacebookを開くたび【何年前の今日】の写真をよく見ちゃう。

 

久しぶりに会う人との時間も気づいたら二年以上経っていて、噛み締めるのと同じくらい久しぶりと言わなくていい人たちに感謝した。やりたいもやりたくないもなくてただやっているって感じの二年間だったなーと外に出るたびに思う。

コロナでいろいろな活動ができなくなったけど、それはきっかけであって理由ではなかった。良くも悪くも慣れるし忘れるし、やっぱりパワーを使うとそれ以外のことはできなくなる。一日は24時間しかない。人生は終わる。そういうものをもっと感じながら生きたいとも思った。

コロナがなかったら成り立たなかったような人生の転機をひっそり迎えていたなーってのも振り返って初めて感じる。まだ現在進行形ではあるけれど、生き方が変わった感覚がある。

断る理由があることにほっとしたり、SNSをする時間が減ってあれこれ不安にならずに済んでいるのは精神衛生上すごくよかった。あとは睡眠環境と生活環境の整え。。結局適切な適当と暮らすことが大事なんだろう。自分が見ていられる景色かどうか。

 

きっとコロナに関係なく私は情緒不安定で誰にも会いたくなくなるし、しんどくて投げ出したくなる。全部を大事にしすぎて持ちきれないことに気付いているのに、いつも限界からの底力に期待して生きていた。もっと気楽にやれたらいいのに、って何度も思ったし今も思ってる。気楽への道in人生みたいな、すぐ全てが修行に変換されちゃうからまだまだ憧れのままなんだけど

 

人と関わることや人間関係を築くことに気負ってしまうところがある。のかもしれない。

人間関係って、もっとできなくていいし、もっとくだらなくていいし、もっと考えていなくてもいいものなのかもしれないけどそれができない。かもしれないばっかりなのは一般的が分からないから。ただ、いろんな人との関わり合いを見ていたら自分の入り込み方が浮き出る時があって、もしかしたら…と思っているというところ。

どうしても頑張ってしまう。どうしても考えてしまう。どうしても役に立とうと思ってしまう。無意識にそれをやっているので気づいたらぐったりしていることが多くて、支援や他人の人生を想像する機会が増えてそれをより感じている。おかげで自分自身の仮説も増えた。共依存になりやすいタイプだから共依存は絶対嫌だと思う自分になれてよかった。

こんな時に無理やり頑張らなくてはいけないことが仕事と生活だけでいいのは救いだったので、すこしだけ私はコロナに救われた。

もちろん、しんどいことはそれ以上にあったし、メンタルは案の定やられてしまったけど(だから人とどんどん会えなくなったし、SNSもやめたんだけど)、記録に残しておかないと何を考えてどう動いていたのか忘れてしまうから、それはもったいないのでちまちまと少しづつ書き足している。

この世界だからこそ会えた人たちもいて、これからは大事にしたいものを大事にできるように時間を生きていきたいなと思っている。宣言。

 

 

 

 

またこのブログを読み返して頑張ろうってなるはず。ちゃんと自分で自分を元気にしているぞ。えらい。