春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

意識していい人側にいる

勝手に悲しみを受け取ったり自分で焦りを生み出して絶望したり、一緒にいるのに孤独を感じていたりする

それと同じように好きな人たちと過ごす時間がとても楽しいし安心できる時間もある。けれどそれだけ欲しいとは思えない。

いつも両手に持っている。日によって天秤の重さが変わって傾いているだけ。

 

わからないを盾に目をそらして自分のことだけ考えてたら本当に居場所なんてすぐなくなるよなー/自分のことを大事にしないと死んでしまうなーの両方を持って生きることは成立する。

自分を大事にすることで自分が思う誠実を心からできる。

意味なくても偽善でも罪悪感からでもいい。今はやらない苦しさに耐えられない

いい人を演じてでも自分の言葉を外に出したい

こういう話を優しい人としたい。

優しい空間ってお互いに興味がある状態なのかなーとかおもう、好きとかそういう話じゃなく。好きって結局どこまでいっても一方的なものだと最近思う

 

みたいな話はまた別で書こう。

全部書こうとするなってXでみたから

なのでもう終わります

 

殴り書きクソネガブログ

生きづらさは競うものじゃないのに、生きづらさを先に取られたって感じがある。不器用を開き直れる人はいいなーとか、わけわかんないけど、もうドス黒い!いやだ!でも思う!

 

 

 

優しくされたい。

あーわたしよ、自分のこと優しくしてあげてーって言葉に腹立ってる場合じゃない。優しくしないとだめだ。

余裕ないとなんにもできない、誰とも会話したくないし人に優しくしてやるもんかってなっちゃう。それでもそういうの隠して過ごしてるの偉いけどだめだ。意味ない。いや、意味はある。死ぬ間際の意味

 

友達の音楽が好きだから、友達が作ったってだけで泣けちゃう。

 

まじ無理全員敵仕事にもどる

ビックマフを踏み続けるマンのエピソード2

ある程度の量のお酒を飲むとちゃんと細胞が破壊されてる感じがしてわかりやすい。身体はよくできている。こんなにも危険をお知らせしてくれているのにどうして我々は繰り返すのか……(諸々のだるさがなくなるまで5日程かかる今3日目)

 

そんな楽しい週末に思い出したこと

 

少し前に、ある催し物でもうバンドをやらなくなって久しい元バンドマンたちが集まる場所に偶然居合わせた時のこと。その日初めて会う人たち、多分同年代くらいで当時聞いていた音楽の話やこの地域のライブハウスのことを教えてもらいつつ流れで自分も音楽をしている(現在進行形)ことを伝えた。テレキャスターを使っていること、うるさい音楽であること……

わいのわいのしていく内に機材の話になり、どんなエフェクター使ってるの?と。

ビックマフと答える。

どんな音楽好きなの?って聞かれたときについ「くるり」と答えてしまう、あの感じで。(くるりもビックマフも好きです)

皆、一斉に懐かしさでテンションが上がっていた気がする。大学時代使ってた!憧れだった!女の人でもつかうんだ!(この辺りで多分好きな音楽が違いそうとわかる)など。

彼らは昔話に新しい要素が加わりとても饒舌になり楽しそうだった。

私も面白かったし楽しそうで何よりと思いつつ、その瞬間自分が化石になったような気がしたのです。

いや、今思えば化石は私じゃなく向こう側ともいえるのだが、大人になってもまだバンドを続けていて、しかもそれで苦悩したりしている自分の方が圧倒的にマイノリティな空間が初めてだったのかもしれない。あぁ、世間と自分が触れ合っている。

普段の生活で自ら自分の話はしないので今までそういう場面に遭遇することがなかったんだと触れ合って初めて知る。人と会う醍醐味だなと思うなどした日

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

時は流れ週末、久しぶりにバンドのライブをみる。若い人たち(とは言いたくないけれど実際若いから仕方ないよね)がバンドをしている姿は胸がぎゅっとする。それはライブをしっかり考えてステージに立っている人へのリスペクトだったと思う。

あれ、私はちゃんとライブやれるのかなーってちょっと不安になりながら友人のライブを久しぶりに見る。彼はいつでもゴールがしっかりしている。それに向かっていつでもまっすぐなのが羨ましいしまぶしい。まっすぐなのに視野360℃あるんじゃないかってくらい全方位に気を遣う彼が好きな人たちと音楽をまたやろうと思えてることがうれしい。のびのびと思考を開放して過ごしてほしいなって思った(この感想が親戚のおばさんなのでちょっとアレだけど)

そんな彼がビックマフも踏まなくなって~と歌っていて、少し前の化石だなーと思った日のことが頭に浮かんだ。というお話。

 

 

こういうの、もうインスタとかXにも書かないし誰に話すこともなくなったけどなんか大事だなと思ったので残しておく。こういう小さいことで喜んだりくよくよしたり面白がったりして生きてきてたこと、忘れようとしていたかも。

私のことを好きでいてくれる人がいる、私には好きな人たちがいるってだけでよかったのに変にまじめで変に大層になっちゃってさ。

 

9月はたくさん外で出ていて、ここ数年の自分じゃ考えられないくらい前向き。電車にも乗れるし曲もびくびくしないで作れるようになってきた。でも、出られるようになったのは出れない期間にこんな私を誘い出してくれた人たちがいたからだ。そのまま歌い続けていいんだと、誰とでもいいから音楽を作ってみればいいと、私のことをそのまま抱きしめてくれる人がいるからなの、見えなくなっていた。

 

たかが趣味だけど音楽をやっていること、大事だった。なんかそういうの恥ずかしくて自信なくて全部隠してたけど大事なんだなーって言いたくなっている。

 

あんまり勢いづくと反動が怖いのでぼちぼちとやっていこう、お酒を一緒に飲んで一緒にぐだぐだしてくれる友達については別で残しておきたいのでまた日記を書きます。

言語化できることこそが正義の世界よさようなら

言葉にするのが上手い人に憧れている。きっとみんなそうでしょう。すらすらと会話出来たり、自己紹介が完璧だったり、もやもやを言葉にできる人はかっこいい。それはずっとかわらない。

 

一方で、話すことが目的の時間や場所が日に日に疲れに変わってきている。

なんだか、言語化することへの正義や、耳障りが良い固苦しい言葉達に胸やけしてる。それはじわじわとすこし(少しは数年)前から。

 

言葉にできる人はかっこいい。しかし、言葉にできないその塊を少しずつほぐしてもがく様は美しい。美しい(一般的には無様とされているようなもの?)とかっこいいが混じり合ったもの、そういうのがすきだ。

パッケージングされた後の君よりそこに至るまでの君を知りたい。

って、関係性の話だったり年代の話になるのかもしれないな。

とはいえ、言葉がなかったら私は君と出会うこともできないのだけど

 

SNSが見れなくなって辞めてまたはじめてまたしんどくなっているのは正義を浴びることが増えたから。分断の始まりなのか、調和の兆しなのか、どちらにせよ耐性がない。言い切る言葉や誰かの宣言に勝手に落ち込んでしまう。

 

初手が認められたいの人とはそっと距離を置きたい。必ず相手がいることを忘れたくない。プライドは他人に使わない。あなたと私は違う。そんなことがだんだんわからなくなってしまいやすい場所にいる

 

一年やってみて疲れたなーって思うことたち、やめてもいいかなって思っちゃう。

自分が道具のように思ってしまう瞬間も、まぁ上手くいくならいいかなって思っていたけれど、やはりどうして確実にすり減っていた。

私には私が安心できるコミュニケーションがある。あった。その瞬間は少ないけどある。

言葉にできないことを一緒に大事にしてもらえた時、ただただうれしくて愛おしい。

結局いつもそうだった。

頭をなでるように、できてないこともできてることもまっすぐに伝えあえる関係がいいな。

 

多分まだまだ背負いすぎている。

ふと、ひとりだと思う。誰に頼ればいいのかわからなくなる。自分の大変さを他人と比べてちっぽけなものにしてしまう。つらいくせに。

 

私はあなたを受け止められない。あなたが私を受け止められないのもそれもいい。もっとサクッとそう思えるようになりたい。まだまだ思わず手に取って、「あ、違うわ。持てないんだったわ」ってそっと置いたりしてる。驕かこれは。

 

40歳ってすごい、ちゃんと体調悪くなるし、身体の異変も出てくるし生きるメンテが本当に大切。自分のこと大事にしようってそりゃ言っちゃうし、周りの人を過度に大事にしたくなってしまう。

うざいし余計なおせっかいだけど、みんなには楽しいことがたくさんあってほしいと心から思っている。そして同じように自分も大切にされたいと思っているんだよね。

 

 

毎日ねむい、好きなだけ眠りたいも心に留まる気掛かりを片付けるためにがむしゃらに動きたいも同じくらいの大きさで持っている。

 

 

 

美容室に定期的に行くという健康法

頭の中が不安とやらなきゃいけないことですぐパンクしてしまう。気になっていることが多すぎる。人生的にも今一番同時進行でいろんなものを持ち続けているので意識的に「一旦置いとく」を本当に意識的にやらないと押しつぶされちゃう。

まさかこんな急に引っ越すことになると思っていなかったし、仕事がずっと暗いトンネルの中のようなのも初めてだし、まさかのまさか、この年になって推しができるとは思わなかったし、この年で推しの脱退にこんなにメンタルがジェットコースターになるとは思ってもみなかった。喪失感にもう耐えられていない。仕事中もイヤホンで聴いていたい。仲良しエピソードを知り続けたい。だがしかし、知れば知るほど泣けてくる。

そんなまさかの連続に自分自身がついていけていないのである。

というか年々不安が増している、全然健やかに年を取っていません。

 

人生は続くなぁって呟けるくらいの余白をもっていたい

 

生きるために必要なことをコツコツやる。洗濯をする、ご飯をつくる、お風呂に入ったり、布団に寝る。コツコツできたポイントは、明日の自分がサボってもいいと自分に言えるための余裕だ。毎日何が不安なのかわからないが(わかってはいる)毎日過剰に不安がって生きているのでひとつでもできたことを大事に持っている。

人に話したところでだいたいこういうのは相手の話に置き換えられるか気にしたってしょうがないと言われて終わるし実際そうなので、まじで自分の性格を強くする訓練。人生の(すごく長生き出来たら)折り返しに来てもこんなことを考えているので幼少期のあれやこれやとか誰と出会うかとかほんとうに大事なんだね(自分の出会いが悪かったという話ではない)

はじめましての自分の年齢、はじめましての子供の年齢、学校のあれこれ、仕事の役割、ずっと安定しない。変化し続けている。当たり前のことなんだけど、息つく暇がない感覚、他人を気にし続けてしまう性格、うまく頼れなかったり素直になれなかったり。そういう自分を知って、そういうものに理由付けして少しずつできるようになる。なってるといいのだが。

 

くよくよしているとはまた違う。自虐的になっているのとはまた違う。

この年にはこの年の変化があるのを身に染みて感じている。脱皮の前の感じもある。恥ずかしがらずに思いっきり考えたい。どう生きたいのかをね

 

たまにさ、全然関係ない時にもらえるあたたかい言葉が宝物になってさ、その人が苦しい時に支えになれるような人間でいたいと思ってまた頑張ろうとなるけれど、頑張るに戻ってこれる時点で多分自分は結構強い。つよくてかたい。清く正しくいたいと願う人は強くあろうとする。だから固くなっちゃって壊れやすい。

 

たまに貰えるやさしい気持ちは誰かとの世間話だったりで、どんな関係であれ近くにいる人からそんな気持ちをもらえる人は幸せだと思うから大事にしたいし大事にしてほしい。

 

頭のプリンが綺麗になってわかりやすく元気にはなったので美容院の存在は偉大。人はケアされたらうれしいのだよね。一人で頑張んなくても、巡り巡っていつだってあたたかいものをもらえる存在なはずなのにね。いっぱい鎧つけちゃってるな

 

 

 

守備範囲の再設定

いい曲を聴いたときには良い曲だなぁって堂々と言えるのに、ださいなって思った時は誰にも言えず自分の知識の無さの所為にしようとしてしまう。昔だったらバシバシに切り捨ててツバを吐いてその場から立ち去るくらい尖っていたけど

 

私が思う違和感は、自分の無知さ故に感じているものなのかもしれない?

気づけばそんな風に自分の所為にするのが癖になっていて、天秤が傾かないように無意識に言葉を発するし、無意識に大量の言葉を飲み込んでいる。自分がださい。

自分の感性を信じられなくなってどれくらい経つんだろう。

それでも感覚派から抜け出せない、池の底の泥みたいに行き場がないままじっとそこにある。

自分で感じる自分が自分なので無知なら勉強だし修行だしそれを血肉にして強く優しくなれたらいいって生きているけど、そこまでしなくてもいいこともあるらしいんだ??

私は守備範囲を人より広くとっているらしい。何人かに立て続けに言われて戸惑っている。

思い当たる節は他人の応援ばかりし続けていること。誰かのために生きている(それすら自分に返ってきて自分のためになると信じているけど)こと。

 

確かに自分の応援がてんで下手で情けないけど、そういうタイミングで誰かが私のことを見ていてくれて、何気ない会話に生かされている。

本当はそういうものの循環でそれぞれが生き続けられたらいいよね。矢印が向き合うことに重きを置くとバランスが崩れる。

 

全てうまくいってほしいけど、全てうまくいくことなんてないから、そのために何ができるのかなぁって。思いつかなくなったらそこが今の自分の力。

 

 

私の2023は、」この一年をうまくできそうもない」から始まっちゃって、だからもう3月なのもすごいし、きっと今年の終わりもちゃんとやってきて大晦日には手巻き寿司とお酒でダラダラ過ごすはず。

もっと大事にしたい気持ちと、大事にするには持ち続けないといけないのでは?の気持ちを行ったり来たりしてる。

 

あー、でもな。目まぐるしさの中で大事にできるものだけ残したい。一度そういう状態になってみたい。

 

 

 

居場所とは2023

平野さんの私とは何かを数年ぶりに読み返している。自分を決めつけなくていい、誰といる自分が好きか、それはどんな気持ちか、好きな自分はどんな表情や振る舞いをしているのか。一つだけでは多すぎるとはまた別の人が言っていた言葉だけれど、うまく笑えない時間が多くなればなるほど自分のことが好きじゃなくなっていく。それはほんとうにそうだね。

積み重なれば積み重なるほど感覚は鈍くなって判断力が衰える。それもほんとうにそうだ。

 

コロナでいろいろ止まってその時も随分変わった感覚だったけど、それらを噛みしめて出てきた気持ちをじっくり立ち止まって考えたくなっている。あまり自分に対してこういうことをしたことがなかったのでどうやって選択していいかわからなくて、人生に迷っているなぁ、この年で人生に迷うんだなぁって新鮮な気持ち。

いざ自分で決めようと思うと良いとか悪いとかやりたいもやりたくないもよくわからなくて(やりたくないはわかる)、どういう状態になれば自分にGOサインを出していいのか不安になる。ただ飽きてるだけかもしれないけど、飽きるという感覚も今まであまり感じてこなかったから飽きるって言っていいのかとか、まさに路頭に迷うである。

仕事と思えば全部できると信じて生きてきたけど、そういうのがちょっともう難しくなっている。「難しくなっている」と言っていいのかな、もっと頑張れるんじゃないかって、結局ここでも悩んでしまって、全方位で選択を常に迫られ勝手にプレッシャーを感じて、私はいま、相当に無駄なエネルギーを使っているんだろうな。

 

自分ひとりやパートナーと考えるだけじゃ解決しないことがたくさんあって、家族の問題も仕事のことも結局は自分の問題として返ってくる。思考の癖や環境に影響されている状態は他人と照らし合わせないと違いがわからない。

 

責任を背負いこみすぎている。自分が悪いものと思いすぎている

勝手に他人を優先して自滅してしまう傾向にあるのでそれをしないようにしたい。そしてそれを正当化しないように気を付け続けるのだ。

ひとりの時間に憧れている時は調子が悪い。ただただ意識的に確保するだけ。

周りを気にせずに帰ったり休んだり、おいしいものを食べたり、やりたい作業をしたりするのが良い。

理由がないといけないと思ってるタイプなので瞬時に理由を作り続ける能力は鍛えられているけど、本当は理由なく思いのままに力を出せる人が一番強いのを知っている

じぶんがそうじゃないことも

 

辞める勇気がない。本当はただそれだけのことなんだと思う。