言葉にするのが上手い人に憧れている。きっとみんなそうでしょう。すらすらと会話出来たり、自己紹介が完璧だったり、もやもやを言葉にできる人はかっこいい。それはずっとかわらない。
一方で、話すことが目的の時間や場所が日に日に疲れに変わってきている。
なんだか、言語化することへの正義や、耳障りが良い固苦しい言葉達に胸やけしてる。それはじわじわとすこし(少しは数年)前から。
言葉にできる人はかっこいい。しかし、言葉にできないその塊を少しずつほぐしてもがく様は美しい。美しい(一般的には無様とされているようなもの?)とかっこいいが混じり合ったもの、そういうのがすきだ。
パッケージングされた後の君よりそこに至るまでの君を知りたい。
って、関係性の話だったり年代の話になるのかもしれないな。
とはいえ、言葉がなかったら私は君と出会うこともできないのだけど
SNSが見れなくなって辞めてまたはじめてまたしんどくなっているのは正義を浴びることが増えたから。分断の始まりなのか、調和の兆しなのか、どちらにせよ耐性がない。言い切る言葉や誰かの宣言に勝手に落ち込んでしまう。
初手が認められたいの人とはそっと距離を置きたい。必ず相手がいることを忘れたくない。プライドは他人に使わない。あなたと私は違う。そんなことがだんだんわからなくなってしまいやすい場所にいる
一年やってみて疲れたなーって思うことたち、やめてもいいかなって思っちゃう。
自分が道具のように思ってしまう瞬間も、まぁ上手くいくならいいかなって思っていたけれど、やはりどうして確実にすり減っていた。
私には私が安心できるコミュニケーションがある。あった。その瞬間は少ないけどある。
言葉にできないことを一緒に大事にしてもらえた時、ただただうれしくて愛おしい。
結局いつもそうだった。
頭をなでるように、できてないこともできてることもまっすぐに伝えあえる関係がいいな。
多分まだまだ背負いすぎている。
ふと、ひとりだと思う。誰に頼ればいいのかわからなくなる。自分の大変さを他人と比べてちっぽけなものにしてしまう。つらいくせに。
私はあなたを受け止められない。あなたが私を受け止められないのもそれもいい。もっとサクッとそう思えるようになりたい。まだまだ思わず手に取って、「あ、違うわ。持てないんだったわ」ってそっと置いたりしてる。驕かこれは。
40歳ってすごい、ちゃんと体調悪くなるし、身体の異変も出てくるし生きるメンテが本当に大切。自分のこと大事にしようってそりゃ言っちゃうし、周りの人を過度に大事にしたくなってしまう。
うざいし余計なおせっかいだけど、みんなには楽しいことがたくさんあってほしいと心から思っている。そして同じように自分も大切にされたいと思っているんだよね。
毎日ねむい、好きなだけ眠りたいも心に留まる気掛かりを片付けるためにがむしゃらに動きたいも同じくらいの大きさで持っている。