春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

ブルージーに気取るよりも飛行機雲を淡々と歌ってくれた方が好きだったりするのです

これはフィクションです。登場する人物、モノ、空、など、全て想像の塊であります。

数日の備忘録。


6/28
髪を切った。
ベタだけど何かが変わる気がした。10年分のなにか、背負ってたものというかこだわってたものが切らなきゃ変わらない気がした。
隙間の1時間でバッサリと。
確かに、もっと短くても良かったかもしれない。もうすこし顔が小さくなったら、もうすこし短くしよう。
切ってから、お昼ご飯を食べに行った場所でなんとも面白い出会いがあった。


やってみると意外と楽になってしまう。ということを何度も経験しているので、きっとこれだって乗り越えられるよ。どうなったって笑えるようになるって。私はもしかしたら、借金まみれになっても言ってるんじゃないかと思うくらい能天気なところがあると気づいた。
ただ、大事にし過ぎてる。大事にしなければならないと思いこみすぎている。10年抱え込んでいたブログもそうだった。消してみたら、あらすっきり。(といいつつ、またこうやって綴っているのですが)
もう、いいんだなって。やーね、全然だめだけどさ。



夏は水分たっぷり生のまま丸かじりできる野菜がいっぱいで嬉しい。冷蔵庫が喜んでいる。ついでにわたしも。
すいかととうもろこしが同時にいつでも食べられる状態の時が1番幸せかもしれないなと、ゆでたてとうきみの匂いを嗅ぎながら思った。



(6/29 AM5:29)
タイミングがすべて遅くて、手の力が抜けていくのがわかった。
髪を切ったってなんにもかわらないこと。
楽にならないこともあるということ。
手放せないものも、手放したくないものもやっぱりあるということ。
それでも手に入らなかったり、近くにいれないこともあるということ。
あ、でも、この先もう繰り返さないという点では変わったのかもしれない。
未来を思いながら変えようとする時、それは死ぬほどつらかったりする。
おやすみなさいもさようならに聞こえる。触れる手も最後のようだ。というか、あれが最後だった。
それを覚悟出来てないだけ。

なんでだろう。だめなのかな。
みんな今を生きてるのに。好きな人のそばに行きたいと思うことのなにがだめなのかな。なんてね。そういう話じゃない。そもそも好かれてない。みたいな。

自由になろうとしすぎた。それはやっぱりマジックだったんだとおもう。
だから、ほんとうにその時間が終わっただけなのかもしれない。

怒れたり、憎めたらどんなに楽かなって思う。
怒りのパワーは時に次に進むパワーになったりする。なんらかのエネルギーがある状態、それは前でも後ろでも力になる。

空っぽにしてしまう関係こそ、あってはならないのだ。そんなのは続くはずがないのだ。





(6/29 お昼の少し前)
昔聞いていたラジオのなごりを抱きしめて、11時11分に願い事をしてしまう。
仲直りしたい。って。おまじないや神頼みしかないのかぁって、ちょっと情けなくなった。


全部遅い。そしていくらでも掘り起こせる。だから、昨日のような傷あとをいくらでもつけられるんだ。いろんな刃物で、刃物じゃないもので、武器を持たせないという方法で…やり方がありすぎで、とてもずる賢くなった。



その後のおはなし。(7/1)
髪の毛を切ったことで変わったことはたくさんあった。
それは、自分を肯定するための理由に使っているだけかもしれないけど、違う未来になるんじゃないかな?と思えた。
それが同じ気持ちだったのがうれしい。

不安な夜は腐るほどある。
だから、その度に確かめ合いたいなって。
逢いたい人には逢いに行けばいいんだと、
いろんな場所から教わっている。


とても不器用でとても器用。

そういえば、疲れたばかりを大事にしていたな。身体の不調ばかりを気にしていたな。
楽しいや楽しい顔を思い浮かべることをずっとしていなかったかもしれない。



もっと褒められてもいいのにな。
みんな、もっと認めたらいいのにな。
そんな世界が良いな。
ありがとうもごめんねも同じ数だけあっていいよ。





なんだったんだ13years

7daysどころじゃない(このくだり、今まで生きてきてなんども使っている)

理想の未来に対してはいつか辛さも報われると信じるタイプの人間だけど、わざわざ傷つくために生きる必要はないと思うし、もう無理だなと見切りをつけるのも、もしかしたら身近にいる誰よりも早いのかもしれない。
自分では、全然早い方だとは思わないのだけど。


絶対に対等ではない。
一緒に、とか
お互いに、とか
思いやる、とか
支え合う、とかも。
どれも、どちらかが正解になる。
簡単に人の所為にできる。
話し方として、それを無意識にやっている人に対して、私はとても嫌悪感を抱くし、できれば関わりたくないとも思う。
そして、私に対してその感情を抱く人もいるだろうなというのも、理解してる。
それでも、想像したい。想像するということを共通点にしたい。


そもそも、そこに過剰に反応してしまう自分がどうなんだろう?という疑問が出てきた。
私理論だと普通でも、一歩外に出れば「考えすぎ」「気にし過ぎ」「そんなつもりで言ってない」の嵐だ。

わかってる。それは何度も聞いた。
ただ、反射的に反応しちゃうだけ。
それが苦手だというだけ。
だけど、それが一番重要であるというだけ。
それが自分だけじゃないこと。
それが一番必要であるというだけ。

トマトが嫌いという人に、毎食トマトを出す友人や家族はいるだろうか?
もし、出すとするならば、そこには克服して欲しい、このトマトなら食べられるかもしれない、という付加価値?気持ち?がついてくるはず。

わかるよ、トマト嫌いなんだね〜って理解を示しながら、食卓にトマトを出し続けるなんて、鬼か悪魔かと思う。
伝えるとはそういうことなんじゃないかな?



ひとつじゃない。
すべてのことがそうなる。
根本の思想があって、数学も英語も国語も勉強する。
答えはひとつなのに、そこに辿り着くまでの点が無数にある。こわい、すごい、細胞が、無限の細胞がひとつひとつ生きている。
考えると身体の中が熱くなって、くらくらしてくる。ストーリーの重なり方を想像すると力が一点に集中してしまう。


それはある意味で歪み続けていた日々だった。


壊れ始めたものをただ何もせず眺めていたら、
雨漏りが始まった家を放置していたら、
どんどん床はびしょ濡れになるし木は腐るし、そこにいられなくなってしまう。
修復しないとはそういうことで、
やれないを選択したのなら壊れることも頭に入れておいて欲しかった。何もせずに治るということは誰かが修復してくれたということ。

どんな時も、前と同じなんてことはない。


欲しいものを伝え続けていたと思っていたけれど、それらを何重にもオブラートに包んでいたみたいで。
言うのが恥ずかしい(できれば言わずに伝わって欲しかった)ことを言って、言った後、ただただ恥ずかしかった。
これで何かが変わるとも思わなかった。
あー、すごくわかったよ。と言われることがたまらなく惨めだったし、
やっと言えた。感もない。


それでも、少しだけホッとしてるのは伝えたという満足感だろうか?深層心理の願いはこれだったのだろうか?嫌だな、汚いな。自分で自分を殴りたいと思う。自分で自分を裏切ってる感覚。
とはいえ、一瞬で沸点まで上がるあの気持ちが私の寿命を縮め続けていたのも確かで。
もう、自分の身を削って伝えることをしたくないと思っていたのも確かなことなのだ。
 
いいんだよ、いいんだよ。
それを認めることで変われることもあるのかな…?
正しいと思っていた私よ、さようなら。って、思う時がくるんだろうか……




日常が、狂気に満ちている世界。
歪んだまま進んで、そのうねりの中を生きている。時代と時代の狭間に両手を入れてかき混ぜたり、すべてを失くして新しいものを作ったりする。
新しいものなんてない。と頭に杭を打ちながら今ないものを作る。今ないから作る。
必要なの、それが必要なんだよ!って叫んでる。それだけを信じてる。


……私は、やっぱりやっぱり、おわりははじまり信者なのです。





やり方7つもあるなんて、もうなんでもいいじゃないか。と素直に思った水曜日

ペディキュアを落として、足の力をもう一度取り戻そうとしてからもう三カ月。
爪たちも心なしか元気になったような気がする。裸の足もなんだか愛おしく思える。
今日のごはんも、失った何かを必死で取り戻そうとしている心が垣間見れるおかずの数々だった。

○アスパラ茹でたの
○えのきとミョウガのナムル
○ズッキーニとウインナーのキムチ炒め
○千切りキャベツ
○長芋とマグロときゅうりのわさびドレッシング和え
○納豆
○雑穀ごはん
○漬物


野菜室に埋もれていた野菜をなんとか救出した。アスパラガスおいしい。
まだまだ料理と言えない料理だけど、リハビリのような生活をはじめたい。リハビリするところまでこぎつけたという意味では、褒めてあげたい(自分に甘い)



食べることは生きること。
思うことも生きることだとおもう。

 


気づいたら、できる限りお風呂の後はパックをするし、毎朝前髪は巻いてから出かけるし、髪の毛を一つにまとめるのにも手間をかけるようになった。そうしないと、昨日の自分と同じにならないんだって知ってから、それらの手間が普通になる。
そうやって、やることもやれることも増えていって年を重ねるとはこういうことなのかな?って、ぼんやり考える。


あー、書きたかったことはこれじゃなかったのに、ふと、足先を見たら爪があって、お風呂の後にパックを忘れると後悔の念が翌日あるなぁと、ふと。



今の私は解体屋さんのようだ。
身も心も、はたまた働く場所までも、バラしてバラしてひとつひとつの材料を見直してる。
素材として。
お店までそんなことをして、実際良いか悪いかわからないけど、気持ち悪いのだからしょうがない。そこに居る人間として、過ごしやすい場所を作ってもいいのかなと、やっと思えたんだと思う。


他人には、「無理しないでね、逃げてね、大事なのは自分だし、私はあなたが大事だよ。」って事あるごとに話してて。
これは本当に、誰かが傷つく姿を見たくなくて、悲しい気持ちになってほしくなくて、できれば周りの人にはみんな笑ってて欲しいし、ぐっすり寝て欲しいし、仕事は楽しいなと思ってほしくて。
でも何より、悲しんだり、辛かったり苦しかったりする姿を見ることが自分にとって一番嫌なことなんだって。もしかしたら、優しさじゃなくて自分のエゴなのかも知れない。



やり方を自分で操作すること。
どこまでも特別だし どこまででも埋もれるから、だから模索するんだと。
自分はダメだー!は自分はダメじゃない!と同じで。頑張れない、は頑張りたい!だった。

私には私の言語があって、誰かと話すときには共通語を使う。彼もまた同じ。
たまに同じ言語の人に逢えたりする。ほんと、たまに。
 それはみんな同じなのかも。




死ぬならこんな天気の良い日に死にたい

火葬の日も雨より晴れがいいな。チョコレートばかり食べているので、骨はスカスカかもしれない。思い出話をしてくれる人はいるかなぁ。みんなお酒を飲んでわいわいして欲しい。
できれば、父より先に死にたかった。
 
ほうきとちりとりでゴミのように拾われるのは嫌だなぁ…とか、ぼんやり。


買い物に行ったスーパーで、おじいちゃんが「らっきょうを漬けようと思う。」と話しながらお酢とらっきょを買ってるのを見て堪らなくなってしまった。しあわせな空間で満たされながら強く死を意識して、そのコントラストが眩しくて、私自身、生きてるのか死んでるのか、ここはどこなのかわからなくなった。



自己肯定感なんてもの、これっぽっちもなかったんだって思い知った。
振り返れば思い知ることばかりだった。
何者でもなかった。何かになりたかった、居場所がなかったのは自分だった。必死に食らいついて離れないようにしていたのは私だった。
思い知ってしまった。

終わらせたいと思っていたのは
傷つきたくないと思っていたのは
知りたくないと思っていたのは
重い扉が開かないようにしていたのは

全部私のことでした。



10年ぶんをもらって、死ねたのかもしれない。
すっきりした。からっぽにもなった。
本当に欲しかったものをもらえたのかな。
本当に欲しかったものって、なんだろうなぁ。




離れても大丈夫だと、言い聞かせるんじゃなく笑って話せるようになりたい。
恐怖を払いのけるためじゃなく、明日は晴れであるように過ごしたい。

そしたら、雨の日も好きになるのかな。
壊して作って壊して作って作って壊して作って壊して。


晴れ晴れとしているようで、一枚膜が張ってあるみたいで、
まるで、ジーニアスコードで浮かんだ世界だ。
なんて、おもしろいんだろう。
まだまだ知りたいことがたくさん。だから、生きたい。



あぁ、でも、やっぱり、死ぬならこんな天気の良い日がいいです。かみさま。


暖かさや柔らかさはすべての力を大きくする

切れ味の鋭いナイフに一枚柔らかい布をまとわせたらきっと抜けにくくなって傷口は広がるし、体温は誰かを温める役割があるし、キンキンに響いてしまう声にはフィルターがある方がいい。

一枚、柔らかさを纏える人に憧れる。自然とそれを持っている人も、それの使い方を知っている人も。あの人やあの人やあの人。冷たい闇もあたたかいものに変える力を持っている。
そしてきっと、一瞬で闇だけにもできるのだ。それをしない強さがとても美しい。



リバーズエッジを初めて読んだ。
椎名林檎が好きなら全員通るのではなかろうか?と言われる(勝手に思っているだけなのだけど)岡崎京子をわたしは全く通って来なかった。読んでみたいとぼんやり思いつつ、漫画を買うという行為自体ほぼ皆無な現在、手に取るまでには至らなかった。今回出会ったのも、旦那氏がサブカルなんちゃらという番組を見ていて出てきたから買った。という。
なんというか、彼はそういうタイプのものがあまり好きではないイメージだったので岡崎京子を買ったと言った時はびっくりした。
とはいえ、彼の方が椎名林檎を吸収していたし、彼の方が椎名林檎度は高かったのだけど。



で。
好きじゃなさそう、って言ったら

好きじゃないかも、って何ページかめくりながら言った。


彼のことを頭の中で作っていた。表面をなぞる作業に合わせて、内面は過去のパーツを当てはめて、記憶から想像して知らない部分もできていった。なんとなく違うな?って思う部分もとても合うな!と思う部分も、そこを合わせるでも解消するでもなく、ただ吐き出して過ごしてきた。
それがどうにもならなくなってから、本当の彼を、また表面をなぞりながら作り始めた。見たものだけはめ込んでいく。まだ全然足りない。まだ全然わからない。それでも、私の中の彼はどんどん変わっていった。それに戸惑ったり、どうして?ってなったり。本当は?って…
真実なんてなんでもいいのに、それが気になって仕方なくなったりもする。

まぁ、そもそも、変わったのではなくてもともと彼はそうだったのだけど……
ずっと、殺され続けてきたって考えていたけど、私が彼を殺し続けていたのかもしれないなって、今は少し。



お金やものや場所や、の、価値を、今一度見直している。欲がなくなってきているのか、無限の欲なのか、それ以外のニーズが自分の中に出てきたのかはまだわからないけど、自分に何が必要なのか…自分は何ができるのか…みたいなことを、今までの考えるより、もっとバラして、本当は?本当に?って自問自答してる。たまに周りにも問うてみたりしてる。
「周りにも問う」ということを、今までしてこなかったと、それをしてみて初めて思う。
自分の実感と相手の感覚。
立場が変われば、私は相手で 相手は自分。


石井ゆかりさんの週の占いを思い出したり目に入った時に読んでいるのだけど、その通り!みたいな。
頷くしかない!みたいな、そんな気持ちになる。
どんなものも同じ星を見ているので、言い方が変わったり捉え方が変わるだけで本質の部分は一緒だから、知るなら好きな言葉を使う人のがいいなと思う。
それこそ、柔らかいナイフを持った人だなぁって。感動しながら情報を得る瞬間、それは変化に一番近い扉が開くのではないか?



シンパシーよりワンダーを
自分の生きるスローガンのようなもの。

後から後からついてくる

私にしては大進歩の一か月だったので備忘録的に。5月とともに。


「今度飲もうね〜遊ぼうね〜」
の、今度が割とないタイプの私なのですが(言ったもののこんな自分と一緒にいて楽しいのか?と思って誘えない。という、これまたちょっと歪んだ理由だったりするのだけど)
5月の私は一味もふた味も違ったことをご報告します。週末を週末らしくすごした一ヶ月(翌日仕事だろうが構わないぞ!の意気込みで)

〜一週目〜
私が愛知県に越してきてわりとすぐに出逢った女の子(当時高校生)とお酒を飲む。
彼女は今、某輸入食品やさんの店長でもうすぐ東京へ行ってしまうのだけど、高校生の頃からとても聡明で、でも絵に描いたような人生とは別の道を自分で選んでいるタイプの子で、そのへんが個人的にはすごく好きだった。10年経って一緒に日本酒を飲めるなんて!と、まぁ、飲みすぎる。
で、この時にせっかくならあの人もあの人も誘ってもう一回飲もうよ!となり、翌々週の予定が決定!
〜翌日土曜〜
これまた、私が愛知県に越してきて初めのほうでバンド活動をしてた時に知り合った(人生のだいぶ)先輩と二人して静岡まで行って、行きたかったお店に。
何を話せばいいんだろうか…と思いつつ、いざ逢ったらたくさんあった。そして飲んだ。もちろん終電は逃したので、先輩というかお父さん?を一人寝床に戻し、朝まで某ライブハウス店長の彼とあーでもないこーでもないってお話。朝始発で帰宅→仕事→動物園。動物は一切見ず、プリキュアショーを堪能して帰宅という、なんともワイルドな1日。(ちなみにこの日は※1母の日)



〜第二週〜
旦那さまの家族が来豊。この日のための大掃除を一ヶ月ずっとちょこちょこやっていて、少なからず緊張をしていたのだと。もう、ほんとに。豊橋で食事、そのまま我が家に泊まり→熱海一泊旅行→話の流れで※2千葉へ→浅草で夜ご飯→別れて帰宅。(帰宅と言っても300キロくらいあるからね、帰るのに)
次の日は死んだ。身体がボロボロ。一回死んだ。(悪い意味ではない)

わたしは家族というものにあまり固執していなくて、なくなってもいいと思いながら暮らしているんだけど(そうじゃなきゃ、苦しみ続けてしまいそうで、自分が生きるためにはそこの事を考えなくすることが一番良いという結論に今はなっている)、、、
それでも、彼の家族に逢うとあたたかい何かをもらえるのだ。そして、私も家族なのだ。って。
じゃぁ、なにができるのかな?私はどんな家族になりたいのだろう?と自問自答してる。
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〜第三週〜
初めに出てきた女の子とその仲間たちと総勢10人くらいでわいわいと集まる。
みんな27.28歳くらいで、そんで女の子がみんなかわいいまま大人になっていて、「この子たちを見ながらいくらでも酒が飲める」を連発していた。そして、言葉の通りその通りになった。
二軒目に行く途中大きいなにかにぶつかって、ずっと氷を額に当てていたことだけは記しておきたい。

翌日はライブ。
愛に溢れている空間でひとり震えていた。
震えてしまうなら、もう入ろうって、奥底まで行こうって。
終わって、君は素晴らしいボーカリストだねって大好きな人に言われたことも記しておきます。(やったぜ!) 


それでいて、バンドの集合写真や練習やみんなでお酒をのんだりもしています。要は結構な割合で飲んでいるということ。
で、また週末。また逢いたい人に逢いにいく予定がある。
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石井ゆかりさんの占いが、なんだかとてもぴたっとはまったお話もまた別で残そうと思います。次回は解釈して、曖昧に記憶するお話。




※1 母の日のお手紙が何故か旧姓でのフルネーム宛でびっくり

※2 ディズニーランドに行くというお義父さんお義母さんに娘も便乗。ディズニーデビュー(しかもシー。ちなみにまだ私は行ったことがない。)

四月は否が応でも新しい世界を見ようとしてしまう

(4月4日)一年が、またはじまった。
2月くらいからなぜかとてもバタバタと忙しく、「年度末だからかな…ならば3月やり切るぞっ!」となんとか3月を終えたものの新年度に入ったところでそのバタバタは解消される訳がなく、「新年度だからね、4月頑張らねばー!」と言っていたら頑張りきれずにダウンしてしまいました。
まぁ、ダウンできる時にしといたほうがね、そのお陰でこの先のしんどい時にも踏ん張れる、やっていけるという説もありますしね。

話はまったく別の方向に向きますが、見ている世界が違うとはこういうことなのか?ということが何度かあった。いや、ある。いまも、なう。現在進行形で。
なんとなく、力になりたいなと思っていた(いる)人や、とても近くにいる人だったり。しかもそれをひしひしと感じるようになったのがここ何ヶ月かで…というなんとも戸惑う展開。
自分がなんとなく変わってきてるのかな?も、あー、なんだか変わったね。もあって、どちらがどうなったのかなんてわからないけれど、むしろ今まで変わらないと思ってた自分よ なんなの!って感じだ。

変わり続ける。環境も生活も出会う人も影響されるものも。そんなのは当たり前のことだった。またどっかで逢えればいいかなくらいのきもち。

で、いたい。
いたい(理想)
そうだったはずなのに、忘れてたのだろか?
もっともっと捨てたい。もっともっと抱きしめたい。

他方向から見つめることは苦しい。
可能性が全方位にあることは自分の立ち位置を変えるだけで全てが変わることで、だからこそ、選んで決める。でしかないというか。
最近そんなことをずっと考えていて、それを話すようになった。彼は彼で私を分析する。
それを話すようになって、会話が生まれるのかもしれない。

不安定さが周期的なものじゃないとわかった時、また解決方法はかわって次はそれを試す時。まだ大丈夫。自分の研究をしながら生きている。


生活は穏やかではない。
生活は命懸けだと思う。
私の生活はそれでいいのだと思えるようになったことが、穏やかに近づいたってこと。