春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

こうやって覚えてすすんでいくのかもしれない

 

買ったパンやお菓子をテーブルの上に並べてうっとりしている。

パンもお菓子も誰かの作品で生き様だと思う。

ちょっと潰れちゃってごめんねだけど。

 

 

ホームに降りて一歩歩くたびに泣けてきて、泣きながらうちに戻ったのは情けなさからか。

最低だなと思いながら話さないと苦しくて、身内にこういう人がいることこそが損害だと思っているし、自分がその損害になっていることに気づいている。だから泣けてくるのはそこにだ。あー気持ち悪い情けないかっこわるい。

わかってほしいと願うことは無駄だ。

変わる体力もぐっと堪える心臓もないならはやく辞めた方がいいな。

でも、なんか悔しくなるのは、それもやっぱりただの力量不足で覚悟がないからなのかなー。

ほんとは仲間に入りたいのかなー

もっとスムーズに意思決定をしたいと思っている。見ているものが違っても一緒にやる方法はいくらでもあるはずなのに、なんだか排除されてるように思うのはわたしの脳のバグでしょうか

 

みんな生きている、

だから生きたいように生きてほしいし生きたいように生きていくしかない。

 

 

 

 

共感能力が高いというのは人の気持ちがわかるという意味ではないような気がした。

どう使えるかの問題だから、あろうがなかろうが関係ないのでは?あることで判断しすぎてしまうこともあるし、彼のようにないからこそ冷静に物事をみることができる(それを共感能力がある、と言ってもいいと思っている)

 

 

好きなものもも嫌いなものも変わり続けて伝えたり聞いたりしないとどんどんわからなくなる。

過去には生きたくない。できるだけアップデートしながら暮らしたい。必要なもの、必要なかったもの、手放してわかることもあって、手放してもまた手に入れればいい。両手で抱えるのはそれからでも遅くない。

 

そばにいる人も仕事も趣味も全部そうやって循環していけばいい。ずっとなんてありえない。ずっとのための努力をしないずっとなんて気持ち悪い。

とここまで書いて、だから、家族とか夫婦とかが嫌いなのかもと、ふと。

あーーー、もっとはつらつと明るく物事を捉えられる人間になりたかったな、とは思う。

 

 

 

私の思う持続可能な生き方とは