春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

優しさとは優しさとは優しさとは、優しさとは

携帯の画面を見られたくないなら画面にメッセージが出ないようにすればいいのに、と思う派。

わかりやすく裏返される方が傷つく派だ。

きっと、そういう人たちはメールの設定を変える方が傷つく、怪しまれると思っているんじゃないか(そういう人と括ってごめんなさいですが)。

 

 

常識と常識をぶつけ合うことに良いことなんてない

誰かに影響されるのは勝手だけど、それを自分ごとにできてるかどうか、が分かれ目みたいなところはある。本を読んで偉くなれるなら世の中偉人だらけで、まぁ、全員が人生の偉人だ、みたいな話に持っていくこともできるけどさ。

だからこそ、見誤らないようにすることが大事というかさ…そもそも、そこで話したいと思ってないから、やっぱ違うな

 

 

それとは真逆(いや、一緒?)のお話なんだけど、

私が救われたー!と感じていた言葉や時間を、怒らせたかも…言い過ぎたかも…と思っていたということを人づてに聞いて、なんてかわいい人なんだ!と更に好きになった。
私の自信のなさに苛立ってくれた人は初めてだったかもしれない。どうして、って言われたのが、なんか、うれしかった。

 

だから、人生は何が起こるかわからない。

し、伝えないとその奇跡も起こらない。

後日談みたいなものがあることが【私にとっての】コミュニケーションなのかなって思ったりする。

 

避け続けて何が楽しいのだろうか。自分の正義と相手の正義は違うのに、ぶつけ合った後日談が欲しい。

 

 

 

はっはっは、夏バテかね、これは

 

おつかれさま、みんな気をつけて

 

 

 

 

 

 

無縁なものでいきてきたけど

派閥とか界隈とか、好きな人は好きだね。

入ってるつもりがなくてもそう見えることもあるし、そう感じてしまうこともあるけれど。

 

企みは大事だけどユーモアさがないものに興味がない。

ユーモアなんてものも、その人の感性でしかないけどさ。

だから、誰のことも何にも言えないし、誰のことでもなんとでも言える。

 

かわいいには必ず情けなさが含まれている。

必ずとつけてしまうくらい、わたしは情けなさが好きだ。

 

どこからみるかで世界は全然違うから、それだけ肝に銘じたい。

 

慣れて来て、それでも泣きそうになる朝は「今までなんとかなってきた」がお守りになる。

 

 

なんだかんだいいつつ、今、一番リスペクトしているのは三十人を二人で受け持つ塾の施設長になった彼である。

人生はただの結果なので、わたしはやっぱりそういう半分流れに乗らざるを得なかった、みたいな人がすごく好きなのである。

彼にはいつだってケーキをあげたい。

夏期講習を乗り越えよ、青年…!

 

 

くそみたい、って思ってることは、当たり前だけど普段言わないようにしているんだった

どうしてもやる!と決めたことは雨が降ろうと槍が降ろうと家庭内がごちゃごちゃしていようとやる。

 

祇園祭に浴衣を来て花火を見に行くのはそれのひとつ(今年は雨も降ってないし槍も降ってないし特別ごちゃごちゃもしていないけど)

 

 

こういうところをこだわりというみたい。

そういえば、世の女性は年々浴衣を着なくなるみたいで、着なくなると着るのが恥ずかしくなってしまうらしい。もったいない。

着たら絶対かわいいのに!

かわいい人がもっとかわいくなるなんて喜びしかないのに!

 

と思っている。とりあえずみんなには似合うから着て欲しいと伝え続けている。

こういうのもこだわりというらしい。

 

 

花火を見ながらそういえば熱海の花火を浴衣を着て歩きたいとずっとずっと思っていたことを思い出した。

気づいたら携帯の画面が割れていた。

結局叶わなかったけど、今年はもっといろんなところに行きたいなー

 

7月はよくお酒を飲んでいるので口を滑らせたり、ぐわっと過去が押し寄せてきたりするけど、楽しい思い出しかないからさ。やっぱり好きな人は好きな人のままなんだね。って思い出になった時に初めて知る。

 

この性格結構好きだからもっと愛していきたいなーーー

 

目に毒

社会貢献という言葉がもういつの時代だよってなってるけど、社会的にはこれからで、でもいつの時代だよって時代になるんだろうな

 

 

インターネットは詳しくないけど好きなので、界隈の人のお話を聞きに行ったりするのは楽しい(インターネットとざっくりいってしまったけど今盛り上がってる動き方をしているひと)。私の中ではサッカーを見にいったりお芝居を見にいく感じと似てる。なかなか行けないけど行ける時パッと行きたくなる。知らない人ばっかりだけど、興味が勝つ場所。

 

 

それを人はミーハーと呼ぶのかもしれないけど、ミーハーな人に好かれることってすごい大事だなっておもってる。

それがデザインするということなのかな、とか。

選ぶこと。

一生し続けること。

死ぬ時に自然と出た言葉や手に取った髪飾り、身につける洋服が美しいものでありたいから死ぬまで選択し続ける。

たまにあれこれこじつけたり言い訳したりしたくなるけど、私のしたいことってそれだなー

 

 

それがだれかのうれしいことになるならこんな幸せなことはないね。

比較するプレゼンとかもう見るのも聞くのも嫌だな。

二階建てに住むのが向いていない

排卵日あたりに調子を崩している。が定番になりつつある

 

彼の育って来た環境と私の育ってきた環境は真逆に近い。

それが今、歪みとして出てきている。

 

私の、「好きと思える人にしか労力を使いたくない」が潔癖と言われたりする要因のひとつだったり、彼の不機嫌に対する恐怖故の不機嫌さなど、ひとつずつ、ひとつずつの現象は愛らしいものなのに、それが積み重なること、点が線になるとき、生活となる時に問題点となって浮上してくるのだ。

 

 

それでも昔の様に喚くことはなくなった

たまに、喚いていた頃の方が楽だったなと思う。こっちを見てほしい、私を好きだと思っていてほしい、手を繋ぎたい、そばにいたい、みたいな、そういう10代のような感情に振り回されていた方が可愛げがあるしわかりやすい。

 

 

喚こうが冷静に考えようが、家族が一緒に暮らさなくてはいけない理由が見つからない。いろんな人にどうして?なんかあったの?と聞かれるけど、自分でもよくわからない。

たた単純にみんな笑える方がいいと思ってるだけで、つらいならその場所にわざわざいる必要がないってだけだ。堪え性のない、と言われればそれまでだけど、そもそも堪える必要がどこにあるのかね?というお話…

 

過去から続く親の影響を疑うことって当たり前だと思っていた。でも、そうでもないみたい。

私は二階建ての家に住むのは向いていないし、車の運転も危なっかしい。内助の功もできない。

 

でも、これも歴史になるんだからとてもおもしろいよね。

 

 

この世にはコストコの大量に入ってるパンを買って冷凍保存するタイプのミーハーと名前しか知らないけど界隈ではちょっと有名な人が住んでいる場所にやってくるからって見にいくミーハーと二種類のミーハーがいる

 

 

 

断然後者な私なので落合陽一さんのお話を聞いてきました(大学の講演で一般観覧OK)

 

 

落合陽一さん

レトルトカレーをストローで飲むということだけは知っていて……知っていたというか、SNS上で見てレトルトカレーをストローで飲む人がいるんだなーくらいの気持ちで、そういう「レトルトカレーをストローで飲む人がいる」情報だけ抜き取って覚えていて。行きの車内でそれが落合さんであると教えられ、「ふぁっ」となるくらいには何にも知らなかった…本は何冊か我が家にあるのですがね…興味がないものってこんなにも意識が向かないのだなと実感した時でした。テクノロジーとかなんか難しそうで、ろくに勉強してない私とは全然違う世界だと思っていた。

 

そんなふわふわな感じで行ったので、聞き始めてこんな内容なんだ!ってなったけど、あの研究者特有の話し方というかのめり込み方が私はすごく好きなので、わけわからん…ってならずに聞けたしあっという間の90分だった。学生向けにしてるからか、そもそもの年齢のあれなのかわからないけど、より濃く出ていて良かった。

 

専門分野をどう使っていくか、みたいな

 

専門の部分の話しはやっぱ難しかったんだけど(単語がまず聞き取れてない)、そこからの流れとか仕組みとかはすごく面白くて、気持ちとか委ねるとかそういうふわふわしたものとの対峙より、「こうでこうだからこうなって、こっちの方がいいじゃん」と言い切って話しているのが気持ちいい。

 

話の中で、お役所とか会社とかいろんな場所で判子押す仕事とかあるけど、あんなのこそ無駄だよね。どこにその人件費あるんだー。みたいなくだりでみんな笑ってたけど、ここにいる学生の半分以上その判子押す仕事のために就職活動するんじゃ………と思ってぞわぞわした。

(今、私は久しぶりに毒を吐きましたよ)

 

 

 

時代な部分もあるから、どうその時代を生きるかだなとか思うし、好きなことだけをやり続けることで最先端に立てるのだなーと何を聞いても何を見ても思う。

 

 

そして、その足でお届けものをしに名古屋まで行ったことはまた別のお話です。