春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

夢と現実の狭間にゆられ続ける

そこまでつらくないし、気を張り続けて気合いを循環させてこれてたと思ってたのだが今朝の自分の状態を思うとかなり極限だったのだな。

と何日か前に思っていたら友人が同じようなことを言っていてそこで目が覚めた。

あぁ、私は気遣って欲しかったんだ。と気づいた。

優しくされたかった自分がいたことを認識するとはっと我に帰る。恥ずかしさと情けなさと諦めと意欲。励ます言葉は同時に自分に向けても言っていた。

 

諦めてひとつずつしんでいく。それは生まれたということでもあるので祝福でもあるのだが。

ならば祝福だけでいいじゃないか!という人はたくさんいるだろう。。が、死ぬと生まれるはセットでありたい。自分の中でもうずっとずっと前から譲れないものになっていて、それを美しいとする、みたいな。決意表明。

死は悲しいけど悪いことじゃなくて、悲しいのは長い時間自分の側にあっていつのまにか自分を象るものの一つになっていたから。自分の何かが死んだと思う時、それはしがみついていたものを手放せたとも言えるし、俯瞰して観れるようになったとも言えるし、〇〇してあげられなかった結果でもあるし、変わりたいと思う気持ちの新しい芽でもある。なんでもいい、だから否定も理解もいらないのかもしれないな。

 

これでいきたいと思う時はエゴが発動してる。誰かを変えようと思っている時。

情けない話だけれど、今がそう。私は今、許せないことを持っている!

 

 

 

 

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自分の時間は作るしかない。重々承知の上でそれが難しいことを主張したいし、それでも時間は作るしかないことを知っている。時間がないのは自分のせいだ。

自分には言えるけど他人には口が裂けても言えない言葉。

他人のしんどさを想像することは簡単できりがない、だから自分の正しさを強要しない。

 

 

 

 

好きなバンドの15年前のライブ動画がアップされていて一通り思い出迷子になってみたけど、今聞いてもかっこよかったので全然迷子じゃない。言っても範囲が狭すぎて伝わらないから言っていないけど本当は一番影響を受けている。

やはりあの2年。あの2年があったから私は音楽を続けているし、それこそ誰かを想うとか、喜んでもらうとか、楽しい方へとか、そういう3D的な空間であることの大事さや面白さを学んだし好きになった。

解散ライブの時にはもう地元を離れていたので普通に見ながら泣いてしまったけど、こういう瞬間にまだまだ生かされている。そんな自分も好きだ。

たまに迷子で遊ぶためにも好きな人には好きと言いたい。会いたい人には会いにいきたい。いいと思ったものを応援したり褒めたり記録に残しておきたい。 誰かと共有できるってことは宝なんだなぁ。

 

 

 

ほんとうに遠くなっていくものとまだ近くにあるもの、これからもよろしくねと思わず発してしまうものがはっきりしてくる期間かも

今選択したものは未来を共にしたいもの。

 

影を落とすものからは離れていいと思う。ちゃんと離れて愛す。離れてもちゃんと愛せる。