春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

グルテンに対する新しい考察

夏にもカーディガンを平気で羽織るような女性に憧れていた。

今年は取り残されずに半袖を着てやるぞ、と思っている。衣替えはもう済んでいるのだ。

 

 

 

 

野菜の段ボールは北海道の地名のものをつい選んでしまうし、選挙の投票用紙はダイニングテーブルのコルクボードに留めておくのが定番になってきた。

ガスオーブンでつくるスコーンは上がり方が全然違って、やはりこうでなくっちゃ!を再確認。でも、使えなかった間に米粉のレシピは電気オーブンの方が相性が良いことがわかった。じっくりと火が通り焦げつかない、ひそひそ話をしてるみたいに。

 

 

 

 

 

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◎理想を追い求めすぎで手からばんばんこぼれ落ちている

◎理想を追い求めているから欲しいものだけ掴み取っていく

 

この二つの行動は同じ。とも言える。

そう見えてしまう人。そう見てしまう人←これもひとりの人を指しているしお互いを言い合ってるようにも見えるしなぁ。

 

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という近況の報告

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

追伸

 

甘夏の皮むきが面倒だと思わなくなったら、それはあなたが一皮剥けたということである

(うまいこと言えた感)

へやにひとりすきなものと正義について

ブログの更新頻度が高い時はもやもやや不安があるときだなー、確かにねーと思いつつ、自分の好きなものと嫌いなものについてだらだらと書いて投稿しようとしていたらちょっと寝てしまい起きたら動悸もすごいし嫌いについて書く時のあの禍々した気持ちも落ち着いていたので割と綺麗に書けてたつもりだったけど下書きのままにしました。

嫌なものやことを美しく表現することはマナーでもあり最大限嫌に見せる方法でもあるなと思うので、そういう時、私は自分は嫌な奴だなと思います。

 

正しさは自分だけに使えと言いつつ、人に(誰とも言えぬインターネットの波の中に)使おうとしていたのは他ならぬ私であるな…

 

 

強みは弱みで弱みは強みで使い方は勉強なのかもしれない。

一生菩薩です

 

 

 

新月に誓うことは

お店をつくる

 

会社に仕事として安定して動けるものをつくって、私は私で、小さな小さなドアも無いような、道路にショーケースが面しているようなお菓子屋さんをつくりたい 

ここでやるなら水上ビルがいいけど、そんな小さなお店が受け入れられる場所に住むのもありだなぁと

内装もロゴもお願いしたい人がいて、関わって欲しい人がいるのは心の支えとしてもすごく良いな

 

 

 

新月ということで、増やしたいこと、はじめたいものを残してみる

 

 

夢の中からラブレターを送る

昨日のカフェオレは平気だったのに、今日のカフェオレとはなかなか手と手を取り合えていない気がする。

 

 

心地いい時間はきっと思い出すだけで心地良い。

ペンダントに忍ばせて、心拍数が上がるのを確認した時にそっと眺めたらいいのかな、

 

 

 

短いけれど、そういうことなのかもしれない。

そういうものを集めているのが私で、そういうものを散りばめたいと願っているのが私なんだなー

 

 

 

 

 

 

 

 

愛をたっぷり込めて

 

髪が長かったことを思い出せない

毎週恒例スタジオから戻り、なんとなく帰りたくなくて深夜のドライブをしている。今日は星が見えない。深夜のドライブ、よくしていたなぁとたまに思い出したりしてる。本当は漁港や浜辺を歩いたりしたいんだけど、この街は囲われてるみたいに海が遠いの。

 

 

 

 

 

痩せたり太ったりを繰り返してるし、やったりやらなかったり、頑張ったり頑張れなかったり

 

人間ってそんなもんだけど、わたしはだいぶ怠け者の部類に入ると思う。

そんな中、過去の写真を見ると4月はだいたい太っていて、これは繰り返してはならない…と強く誓った(現に今年も太ってきている)

 

 

 

 

 

 

低空飛行もいいところ だった。2月から、昨日まで。

今日、少し光が見えたようで調子の良い時に違和感を伝えようと思えた。これは進歩だと思う。思おう。

頑張りたいから我慢はしない。したい我慢は存分にしたいからしたくない我慢はしたくない。

 

 

 

一緒に働いていたスタッフさんに会ったらすごくすごく安心して、年月より密度だ。あぁ、ぜったい年月じゃなくて密度だ。どれだけ自分を見せているかだ。どれだけ相手を知ろうとしてるかだ。って、それはもう思った。それくらい安心した。うれしかった。

これを愛というのかもしれない(重たい)

 

たかだか地元のある層にだけ知られているカフェのひとつだったかもしれないけど、お店に全身全霊捧げていたのかも。なくなって、悲しんでいられないって蓋をし続けてきたけど、やっぱりすごくすごく悲しかった。誰のせいでもないけど、頑張ってきたものが急になくなるのはつらいもんなんだなーと、無くなって意識してやっと気づく。

誰かのせいにしたかったし、周りの通常営業で進んでいく毎日を眺めては私の停止線をつま先で何度も蹴った。

悲しいけど頑張りたい。だから悲しみも一緒に連れて行って、ちゃんと空に放ちたい。

 

 

めんどくさいか、でも好きだ。

自分が大好きなので、プライドをもってプライドを捨ててる。

今はそういう感じを大事にしてる。

 

 

 

さて、帰ろかな。

区切って生きている。人生は続くから

でろでろグニュグニュしながら、大事な場面ではキュッとできればいいなって

瞬間にどれだけの価値を作れるか、みたいな勝負ばっかり、好き

 

破滅に向かって美しくなれるなら、破滅でいい。続けることに意味を感じない。

続くとは、続いたであって、ただの結果。振り返った時に見えるもの。目的ではない。

 

 

 

 

斜めに滑る目を止められないまま、何度も脳の中を泳いでいる。

曖昧に曖昧という名前を付けたいから、わたしにはいつだって答えが必要なんだ

 

 

 

 

 

愛しい人をずっと愛しく想うためにさようならを言う。残酷。でも美しい。

覚悟できてない。覚悟したくない。責められても仕方ない。わたし、たぶん、それでもいいんだ。

美しいものを追い求めようとすると、それじゃ生きていけないよって言われて。

誰のためにやってるの?と聞くと、もっと未来を見て。って言われてたなーと、過去を「過去です」と言えるために何度も思い出している。そんな話もしなくなって、だんだん薄くなって、思い出にする。

誰のためにやってるの?って、今日のごはん何がいい?と同じような感覚で質問しちゃって、これがよくないのかもしれないけど。

噛み合わなさばかり目に付いてたなぁ

 

 

 

 

キリがないけど、忘れられずに残っているものたちは、きっと、鋭く鋭く深く、見えない糸みたいに奥に潜んでいるのかもしれない。

 

 

 

 

抽象的にしないと情けなくなる。

 

 

友達に、落ち込んでたんだって話をしたら、私もさぁ、、、って話してくれて、強いばっかりじゃなくてもいいのか…って力が抜けた。

普段外に出る時は極力明るく元気でいなくてはと思っていたけど、友達ってもうすこし許してもらえる存在なのかもしれない。

 

気負いすぎてしまう人たちの、ふっと力が緩められる場所。

励ましたり寄り添ったり会えなかったりそれでも想い続けたりすこし忘れたり思い出して愛しくなったり、そういうものを日々として小さくなってしまう人にどうしても目がいってしまう。

 

 

確実に違うから大丈夫。みんな生きている。

戻ることもない。それは新しい選択なんだと思う。

 

人生は続くね

ありふれた言葉の説得力に歴史を感じる

あるミュージシャンがブログのコメント欄でやりとりしてるのを見て、とてつもなくきゅんとした。合ってる。あの人にはぴったりのコミュニケーション方法だってグッときた。

いいなと思ったものをシェアする時、自分のコメントも上乗せして投稿ボタンを押す。

私はそれをミクシィっぽいなといつも思っている。

 

個人個人の小さなこだわりや想いがもう少しだけ、もう少しずつ、見えるように、伝わるように。って思っているところがある。

 

 

そういえば、好きな文章を読んでいる時、スクロールが紙をめくる感覚になる時がある。

手のひらで滑らかに導かれるように読み進めてしまうあの感動とときめきを誰かに伝えたいなと味わう度に思う。そこまで本を愛するとか考えていないけれど、文明の開化を噛みしめる時代を生きているからなのかもな!とか、ね!

 

 

金曜日のスタジオの帰り道、真っ暗な空の雲の切れ間から見えた月がとても綺麗で、

「真っ暗な空の雲の切れ間から見えた月がとても綺麗だった」以外の言葉が見つからなかった。語彙力が無い自分の問題とはいえ、調べてみたけどあの瞬間それよりぴったりのものは見つからなかった。

それも含めたあの日の時間に想いを馳せる人と友達でいたいと思った。

雨の後の空気は埃が落ちて澄んでいるように感じてうれしいなぁ(ほんとうのところはどうかわからないけれど)

 

 

 

 

桜といえば、感覚は今もGWなので、10年以上住んでるのにこちらの桜事情がすっと入ってこないのが正直なところ。毎年、もうすこし暖かくなってからだったような…って思っては見頃を逃すを繰り返しているかも。

これは、紅葉も同様である。

なのに、春物のなにかが欲しいし、髪も切りたい。身体は飛び出そうとしてる。体内時計?体内カレンダー?体内感覚がめちゃくちゃである。春が一番脳と身体のズレが大きいような気がする。。。しかし、これらは全て脳が引き起こしていることで、脳は脳で、私のいう人間の中でパターンを作り反応としての司令を出しているので、「ズレている」感覚すらただの反応であり、細胞単位の思い込みだったりするのだ。(?)

まぁ、なにが言いたいかというと、そりゃ体調も崩すわ…!ということです。

 

 

何年か前の写真を見たらものすごく髪の毛長くて(おへそくらいまであった)、もう戻れないんだなとしみじみ。いやー、もうめんどくさいな。くるっくるのふわっふわにしたい気持ちもあるけれど、今が楽すぎる。怖いから美容室に行くたび数ミリずつしか短くできないけど毎回もう少し切ればよかったなって思って、確実に数ミリずつ短くなっていってる。。。

こうやって年をとっていくのか…という思いもある。

「人生は毎日の積み重ねである」を実感する分、できないことは捨てていってる。余計な手間をなるべく省いて、心を込めたいと思うものに存分に心を込めていきたい気持ちが強くなってきて、今の私は、自分で持てるものがきっとすこし人より少ないんだなぁ、と、漠然と、でも確実な感覚としてそこに「ある」。

 

 

 

新年度からはじまる一番苦手な意味のない集団への参加が始まり、やっと小学生の親の感じが出てきたなと。もうメールでいいじゃん……しゅん。