春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

内田樹さんに救われる夜

●今、本当に今までのやり方ではこの先に行けないんだと心の底から思っている話

それはコロナだからでもありコロナが全く関係ないところでもそう思っている。

いろんな人がいる、でもそれを多様性と呼べるようになるには仕組みが必要なのだ。

反射に対する対応。

時代が確実に変わっていること右と左を混ぜ合わせそれを見せるということ

救いなのは、この感覚を一緒に持ってくれる人がいること。

気持ちだけでもそんな人が現れてくれてずっと一人だと思っていた私には救世主のように感じてる。そういうとこほんと単純なんだけど、それくらい一人感あったんだな。

思いはみんな持っているんだけど、それを同じように自分ごとに感じていると感じることができたのがめちゃくちゃ嬉しかった。なんというか、ずっと一人でやってきたものを一緒にやりたいって言ってくれる人がいるってこんなに嬉しいんだね。

みんな楽しい方がいい。そのためにはいくらでも血を吐くしいくらでも計画を練る。自分なんていらない。恐ろしいほどに振り切っている。自分でもなんでこんななのかなぁとは思う。もしかしたら自分の居場所を作ろうとしているだけなのかもしれない。欲しているから作ろうとしているのかもしれない。

自分の居場所が誰かの居場所でもあるようにしたい。

 

人生が半公共なのかもしれない(自分のキャッチコピーにしたいくらい)

 

 

 

ヤフオクマスターへの道の話

月末に2ヶ月分を締めて売り上げを確認した。

頑張った。稼ぐという視点から言えば少額ではあるがこれは頑張ったと言っていいだろう。明日はパスタとケーキにして月曜日からに備えよう。簡単にご褒美を与える人生。

今が自分の中でめちゃくちゃスタートアップなので、できれば今は一緒に進める人がそばにいてほしい。しんどいけど面白いから進ませてほしいという気持ち。あなたの邪魔はしないから私も進ませて。

 

●雑なお弁当に腹が立ってる話

この状況でいろんなお店がテイクアウトを出してるけど、美味しいのは大前提の上で面白いや美しいものを作りたいし食べてもらいたいなーと、見ていて思う。今やれない自分が情けなくて落ち込んでいる

こちらも、稼いでから言えやと自分にツッコミを入れて完結させている。

ひたすらにやるしかない

 

 

●人生設計と会社経営の話

夫婦2人で過ごす時間が長い人に羨ましさは感じるし、子どもがいるからこそ得られた経験値や救える範囲がある。家庭になることで夫婦関係も変化して、人間対人間じゃなくなっていく人を何人も見ている。

ハンデは強みに変えるしかないのだけれど、今の社会においてどんな手を尽くしてもそれがハンデにしかならないものや場所もある。悲観でもない。現実。

ただのポジショニング。どっちかにはもうなれない。ただどっちもを少しずつ持つことはできる。

どっちも少しずつ持つことができるのはどっちも経験してる人だけなので羨ましく思ってることも生きる糧になっているのだ。それにたまに救われるときがある

わたしは調子が良い人間だ。ものすごく愛されたいしものすごく愛したい。一方通行であることをひどく恐れている。

 

●思考の螺旋階段の話

毎日バカみたいに落ち着かない。余計なことをたくさん考えて、いつかを抱きしめて生きている。振り返ると私は救われてばっかりだから、学校に行かなかったことも、振り回されたーって思った日々も、好きな人と離れ離れになっちゃったことも、家族を助けてあげられないことも、今の会社のことも全部自分だから。罪悪感も持ったまま最後に笑って死ねるように生きるしかない

 

 

憂よりもハッピーさをまといたいといつからか思うようになっている

が、疲れには勝てないのだと知る。

疲れないように日々を生きることも立派なスキルだ

 

 

 

 

禁止されていなかった頃の手触りを価値と呼ぶ

肉体的と脳を極限まで使うと多分倒れるんだけど、その手前はめちゃくちゃ寂しくなって誰かにそばにいて欲しくなるみたいなものが発動しやすい。

きっとそういうのも研究されていて人間の感情なんて科学の手のひらで転がされてるものなんだろうな、、(だからめっちゃクールって話でもなくて、統計学の視点とでも言えばいいのだろうか)

 

頭を使うことを疲れると思う時は、今やろうとしていることに対して自分の理解が追いついていない時、又は私の考えることに他人の理解が追いついていない時である。

理解の不一致の平行線が一番疲弊する

 

戸惑うことは必ず自分の理解不足の方を疑って勉強不足に追い込みをかけるようにしているけれど、そういう問題じゃない時がたまにあって、それはもう人種の違いや言語の違いのようなもの。そして、これを私が思うということは同じように相手も私に対して思っているということ。

 

 

こないだ誰かと話したが、自己肯定感の低さからくる、基準を自分にしてしまう問題が自分に余裕がない時ほど出てくるので自分で自分の機嫌をとることが本当に大事だなと身にしみている(ここで出だしに戻る鮮やかな循環)

 

こういうモヤモヤの時の方がむしゃくしゃして甘いものが食べたくなったり上の空でご飯を食べてしまって、そのことにも落ち込んで追い討ちをかけがち。

疲れにも健全なものと不健康になるものがあるのだな。。。うん、あるのだ。

 

 

 

 

今の状況を3.11の時の気持ちと重ねてしまっていて日々底なし沼に落ちていく感覚。近くて遠い遠くて近い。今回の方が自分たちで決めて選択の末のこの状況だと思うと余計辛くて途方に暮れそうになる。やれることはやる。やれることしかやれないんだけど少しづつ少しづつすり減っていってる。応援するや助け合う、隣の人を気にするとか、無意識の中で薄れやすくなってしまうことをなんとか維持し続けないとって気負いすぎていたり、単純に分断されやすい状況になっていくことへの落ち込みが負荷となっている。メンタルが弱いの一言で済んじゃう話なんだけど。。。

しかもこの週末予定が入っているのでさらに落ち込んでいる。不要不急ってなんなんだろう。

マスクがなくなりマスクをしてない人が増えていることにどんな理由であれ許さないって姿勢の人もいるし、こんな時だからいつも通りの人もいる。

自分を守ること誰かに背負わせないこと、ちょっとだけ周りを気にする余白を持ち続ける努力をすること。

 

 

 

 

 

桜が咲き出していた。

夜明けと朝の間に高速を走る時、浜名湖から三ケ日の間あたりで遭遇する道路脇の桜が真っ先に思い出す景色。毎回感動してる。毎回感動してる自分に単純でおめでたくて好きだなぁと思う。本当はその時間や景色に付随したキュッとした記憶も一緒に出てきてるけど過去は全部綺麗だ。その辺も良いところかもしれない

 

でも、こんなときだけど満開の桜の下でのんびり歩きたいなーーーー

 

 

 

待合室の緩やかな祈り

 散々だったなーと思いぶつけるように打ち込んだ日記のようなものも寝て起きるとちょっと恥ずかしくなってしまうな。

 

 

あったかくなってくると嬉しい。単純。

お花見したい、散歩したい、緑が濃くなって行く様を喜びたい。お酒も飲みたいしご飯も食べたい。音楽もしたいし好きな人に会いたい。

桜の時期だけは毎年いろんな時のことを思い出している。桜の時期のことだけは割と覚えているように思うな。知らない街の一人じゃ入りにくいお店も二人なら入れるし、誰かを待つ間の時間の愛おしさも知ってしまっている。

ナンバーガールは復活するし、ボーナスタイムのような時間をリアルタイムの人間として過ごせているのが嬉しいな。

と同時に3月の何が何だかの状況について行くのがやっとだったりする。

普段通り過ごせているけれど卒業式ができてよかったことを喜んだり、リーマンショック以上のことが起きてること、オリンピックがこのままあってもなくても影響があること、私たちは生き方ごと少し先のイメージをして作り続けて行く必要があること、今のお金と未来のお金のあり方(使い方かな)をもっと身近でもっと寄り添ったものとして提示して行く必要を感じてる。

やっぱり絶対お金は必要だからもらうだけでも渡すだけでもなく循環するように。循環の定義づけ。でなけれは自分が生きていけなくなる。自分が生きていけないということは私以外の誰かも生きていけなくなる可能性があるということ。私が存在してるってことは相手も存在しているということなのに。

私と同じ人間はいないけど、私と同じ箇所で引っかかってしまう人はいそう。

そんなことを考えながら整える、ひたすらやるを続けてる。

できるだけ手を抜いて、できるだけやりたい箇所はできるようにお米だけは炊くのを忘れないとか、餃子や焼売はストックしておくとか、カレーは多めに作るとか、生活も楽しんで行くぞの意気込みがすごい。

正直、料理が好きである程度感覚でやれるレベルで手抜きが好きで自分研究が趣味でよかったなと思う。会社員をして母親をして主婦は無理だ。暮らしの執着がないタイプで助かってる(それ以外の執着がすごいのでプラマイゼロ以下かもしれないが)

 

 

話は戻るが向井さんを見るたび藤井さんを思い出す。青森行って飲みたい。

まぁ、大事な人たちみんな元気でいてくれたらそれだけでいいんだけどね。

最近実際に知っている人たちが夢によく出てくるので朝目が覚めるとセンチメンタルになっている。元気でいてくれたらいいと言いつつ本当は顔を見たいと思っている。

 

音楽も好きだな。思いっきりやりたい気持ちは当たり前だけどあるんだな。

 

 

あー結局吐き出している。日記くらい自由に書こうと言い聞かせて公開ボタンを押す。

 

 

ポップコーンファクトリー

こんな時だけど、がっつり現場に出勤している組です。

変な時間に家に帰るとちょっとだけ残っていたパワーも吸い取られてしまうので、帰る時間の調整も生活に組み込まねば今の状態を生き抜けないな…昨日4日分くらいのカレーを作った自分を褒めたいと思う。

 

全く眠れずに困っている。別にスタミナがあるわけじゃないからさ、普通に数日ひきづっちゃうのだ。

昨日朝はちょっと抜けたかなぁと思っただるさもあっという間にもと通りだった。

 

違うことは面白いけど少しだけ似たような人と話がしたい時がある。もう少しだけ安心したい。自分がおかしいんじゃないかとどんどん追い詰めてしまう。それは悲しい。

そんなことやっても何にも変わらないのに悲しみの到達点はすぐ来てしまうな情けない。

結果いつもマイノリティ側にいる。必死にどうしたら会話ができるのか考えるけど、あんまりハマらないまま。

 

いま執着して苦しくなっているものって自分が欲しいものだから、どう頑張っても手に入らないものは諦めないとずっと執着の塊を身に纏うことになる。。本当に覚悟を決めてやめないと本当にずっと苦しい。

どうしてもそこは強くなれない。言い聞かせ続けてるけど全然効果ない。そして薄まらないのは欲しいからなのだ。

 

 

 

 

余裕を作る一番手っ取り早い方法は離れること。手っ取り早いが故にこれをついつい使ってしまう。まだまだ修行が足りぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋を借り合うというスタイルで

年末からものすごいハードだなーちょっと身体もたないなーと思ってブログ振り返ったら去年の夏くらいからずっとハードだって言ってた!よかった。年齢のあれで急に可動域が狭まったのかとビビってた。疲れがじわじわきてるだけでよかった

 

二日に一回はぽろぽろ泣いていて、しかも誰かへの感情じゃなく呼吸をするように泣けてくるので、めちゃくちゃ疲れてるなーと他人のことのように見てて、なんだこれ?となったりしている。

 

個人的にみんなで同じ作業をやるとか考えるよりもプロジェクト内で役割決めて自走し合う状態を確認できることに喜びを感じるので、決めたことを進められない、進んでいない状態が一番落ち込む。今までもそこを達成しやすい仕事を選んできてた自覚もあり。

自分の特性というかある種馴染みにくい性格だからこそ養われた感覚や、サービス業で当たり前としてきた全ての工程の先に相手がいることの感覚が、別のジャンルに行くとマイノリティになるのだとこの一年痛感してる。

 


人生は修行だ。

ちなみに修行というワードはよく使うし、ほんとそうでしかないと思ってるけど、特に苦しいとかはない。むしろ超えていくよね。

一般的なつらいが全員のつらいじゃないし、自分の楽しいが誰かの楽しいとは限らない。だから全員を祝福できるようになりたい。他人の生き方をとやかくいいたくないし聞きたくない。

すごい仏教的だなとは思ってる。もともとの思考が、わたしはそうなのかもしれない。それは育った環境のおかげかせいかわからないけれど。

 

 

 

 


言葉の端に過去を忘れないという意志が見える人が好きだなぁと、そういう人に会うたび思う。

役割の違いなので、どっちが良いとか悪いとかの話はしていなくて、そういう役割の人に惹かれるって話。

夜な夜なカラーで夢は見たい

簡単に人を嫌いになれる性分なので、好きになる努力は人よりもしてる。

ただ、それだけ頑張ったのにだめってことはほんとに合わないのね。って、どっかでばっさりいってしまいそうだなーと振り絞る度に思う。

まだ、大丈夫だった。

また堪えられた。って続けることの意味があるかどうかはもっと先か自分が死んだときかな。

 

みんな知らない。みんなこわい。だから、イメージして作るしかないけど、こわいときは自分のことを守りたくなっちゃうのよね。それが真理。

 

一年くらい続いた目まぐるしさはじわじわと確実に雨漏りみたいに溜まっていってる。

泉のように湧き出る欲望と手を繋ぐ

古い古いマックブックを使っているけれど、少しずつパソコン作業が増えてきてやっぱり性能大事ってところにたどり着く。新しいの欲しいな。

レトロとかB級好きなどのイメージがありその辺誤解されやすいけど、私はめちゃくちゃ新しいものが好きだ。家も新しい方がいい、気密性高いし、掃除しやすいし柱少ないし絶対良い。新しいものの方が生きやすい。デザインは確かに古いものが好きなんだけど、多分デザインが好きなだけで、自分にはそれらを大事に使う能力がない

しかし、そうなるとめちゃくちゃ値が張るのよね。新しくてかっこいいものはだいたい高い。納得もしてる。だって使いやすくてかっこいいものを作ってくれたんだよ。

ほしいと思うものが服もカバンも靴もソフト面でもなかなか簡単には決断できないものばかりになってきているのはお金の問題なんだけど、欲しいのハードルが高くなったので一旦持ち帰り熟考しましょ、というのが自然な流れになりつつあり、物も増えないので断捨離が進む。となる。良かったとする。よかった。

 

 

ずこーんと落ち込んだのが10日くらい前で(思い出してまだ10日か、、、!とびっくりしている。が、生理になって一週間でも長いと感じるのだから10日間は長いな。うん、長い)落ち込んでからなかなか調子が戻らないのは、戻る場所がないからなのかもなと考えている。カフェをやっていた時の安心感を思い出してちゃだめなのはわかっているんだけど、まだまだ解消できそうもない。。特別仲がいいとかじゃなかったけど、私は安心してお任せできていたという事実が特別仲が良いよりももっともっと重要なものとして抱きしめているんだといろんな人と仕事をするようになって気づいてきた。

毎日くっと力を入れて、出勤して、一日覚悟をし続けて、夜は気絶するように寝ている。性格というか自分の特性というか、過敏なのだ。だから立ち上げとか仕組みを作る時の必要なものが人より多い。

そんでこのタイプの人は丸投げポジションに絶対いけないので丸投げする人の投げたものを形にするのも役目なのだ。

先陣切って歩いてくれる人もリスペクトだけど、その中身を作ったり整えたり振り回されながら作ってついて行く人のことをしっかり見ていたいと思ってしまうのは自分ももっと認めて欲しいって思っているから。疲れるとそれが出てきて恥ずかしくなる(自分で自分を褒めているがもっと堂々といたいものです)。

このポジションが一番評価されにくいのは確かなので、そういう人の味方でいたい。

(ポジションだけではなく学べる人全ての味方になりたい)

簡単な楽しいと難しい楽しいどちらも楽しめる人間になってやる。という決意。

 

 

 

生きることは組み立てること。どんなに頑張っても自分を一番大事にしている人はきっと誰のためにもならない。いや、一番大事なのは自分なんだけど、比べたり他人の言葉で自分を一番にしようとしている人の「みんなのため」は誰のためにもならない。

何にもしなくて良い。どんどん自分のことだけやってくれれば良いのにってどうしても冷たい思考が入ってしまう。

褒められたいなら褒められたいで良い。遠回しに、褒めないと悲しむ人いますよね、みたいな言い方でわかってもらおうとするのは、30歳までかもしれない(私も手遅れの部類に入るので経験者は語る)

疲れたりできないことだったりがあるのは当たり前だから、誰の気も使わなくて良いから頑張れなくていいからそれを教えて欲しい。

頑張ってどうにかなる人というのは、どう頑張ればいいか分かってる人だ。頑張り方がわかる人は成功体験を積み重ねていけるでしょう。それはスキルアップを楽しいと思える要素だと思う。 

助け合うときに必要なのは共感ではなく理解だし、理解することでどこをフォローすればいいかわかる。共感でどうにかなる話なら多分問題は起きていないような気もする。共感の本質は多分もっと違うところにあったのに、気づけば肯定の意味で認知されていて、そうなると、共感は上澄みをすくう行為である。

 

物理的な距離でバランスを取ろうとしていてそういう時は大抵落ち込んでいて余裕がない。やってもやっても雲をつかんでいるような感覚。。。

別れたり会ったりしないのが当たり前の家族というものはやっぱり気楽で感謝するべきものだ。でも、もっといろんな人と会ったり別れたりしなくていいようになれたらいいのにって思うけど、それはおかしい思考なのかな。

疲れてる。美味しいものも食べたいしゆっくりお酒も飲みたい、とことん甘えたいし一人でスタジオ入って曲作ったりしたい。これこれっていうバンドもやりたい。

やりたいことは一個ずつやる。やるしかない。

 

 

びょーんと勢いだけで打ち込んで頑張ってるを主張するためだけの日記のようなもの