春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

自我の神格化

非営利なんだからNPOはお金貰うなって言える人の顔を見てみたいし、どんな性格してるのかも気になる。

善意なら見返り求めるなって善意を貰う側の人が言ってたり、弱いものを助けるのは当たり前でしょを盾にして振りかざしたり、何かにつけて臨機応変にやりましょうって言って何にも決まらなかったり、定期的に気づきで人生変わった風になってずっと悩んでいる人とか。どこでもそうだけどある場所に所属すること、そこに固執することは自分を殺すことになるんじゃないかと思ってきた。

 

サードどころかセブンプレイスくらい欲しい。あなたも私もいろんな顔がある方がいい。

 

脳の疲弊度が増してる。脳の疲弊度が増すと歯が浮いたりしみてくるし頭痛があらわれるし暴食に走る。情けないくらい悲しみを抱いてしまう。

 

食パンを一斤食べてしまった数年前の私ではないので、夜と朝1枚ずつに抑えられているけど、こんな時も我慢が必要なのかーと泣くように笑う(いや、全然元気なんだけど)。ずっと持ってる違和感や悔しさは全然なくなっていないのだ。こういう時に思い出しちゃうから無くなってないんだなってわかる

 

 

 

 

福祉にいすぎると福祉精神みたいなものが知らないうちに染み付いてしまうような気がする。自分のこれがそうなのかわからないけど、許し方とか諦め方とか自分がなるべく傷つかないように辟易しすぎないように自分の落としどころを探しながら常に脳をフル回転させている。福祉と仕事(売上)ってものすごく難しい。【福祉が仕事】と【福祉と仕事】は全くの別物。

もちろん誰も悪くない。

 

 

 

 

信念がありすぎるが故に悩むことが増える

正しさを証明するための会話

正義を武器にしてしまう

ユーモアの種類

先に謝ったら傷つけていいと思っている

 

自分がとても大切

 

自分を大切にすることはとても大事だけど、それはわがままになることではない。謙虚さは大事だけど、それは我慢することはない

 

結局バランスなのかーって頭を抱える

 

バランス感覚はセンスと似ている。そしてそれは分析能力かなと思う。

 

自分が合わないなーって思う人のバランス感覚が気になる。それは、良い悪いではなく自分のそれとズレている違和感。

昔、ケンカする度「どこいっても同じだよ」って言われて、その時はとても腹が立って許せなくて(今も別に許せていない)この性格のまま絶対認めさせてやるって思っていたけど、確かに。今なら少しわかる。自分のこの感じよくないし、ちょっとだけやっぱり好き。

 

 

悪態ついてる。悪態つきたい時もある、酔っ払ってぐちぐちしてそのまま寝ちゃってもそれを笑ってくれる人が理想のタイプです。

人生の折り返しで理想のタイプが固まったの遅すぎるけどこれでいく。人生は続くから!

 

 

 

 

 

ざるそばを単品で頼む側の人間になった記念日

蕎麦屋さんに行くと98%の確率でかつ丼の誘惑に勝てず、かといってかつ丼だけだとせっかく来たのにもったなくてお蕎麦とのセットを頼んでしまうんだけど(それでいて三口目くらいで満足しちゃう、けど食べる)誕生日が過ぎてからでしょうか……鳥南蛮そばで思い留まるようになり、先日とうとうざるそば単品でフィニッシュすることができました。まだまだ、何歳からでも大人になれるのだと知った

 

今年も終わるという12月、数年振りに外に目が向きだした気がしてる。誰かとお酒を飲みたいとか、旅行に行きたいなとか、新しい人とつながりを持ったりとか、チャレンジしたいと思っていたことをやっぱりしてみたいとか、そういうのが出てきてる。出てきてわかるけど、そういう気持ちがほんと見事に全くなかったんだなって。流れや慣れの怠惰さと負荷を減らすための一点集中さ。コロナになったり帰省したりして、自分や周りのことを考える時間ができたことも大きかったのかもしれない。元気だけどぽっかり穴が開いていた。ありきたりな言葉だけど

 

 

人生を後押しするものはやはりコミュニケーションなのか。コミュニティに所属している安心感は全人類に有効なのだろうか。

 

できるだけそれらを削ぎ落とそうとしていた人生だったので、結局工程を踏むことでしか一緒に進めないのかと絶望したり納得したりして割とぐるぐるしている。ひとりじゃなにもできないを右手に持って、でも、だからといって誰かと一緒じゃないとできないこともないを左手に持っている。

必要な時に必要な分だけもらったり渡したり寄り添ったりしていたい。そのために必要なコミュニケーションが実際どの程度かかるのかっていう実験中。とでも言っておこうか

 

人間大好きだけどできるだけ関わりたくないと思っている矛盾と、どこにも属していないと実感した時の孤独とか、いろいろだなぁって何とか生きてる。

今まであまり抱かなかった感情を今年は感じていて少しの情けなさと戸惑いがあるのです。

 

素直に振舞うと嫌われることもあるし好かれることもある。どんなに大事だと思っていても離れていってしまうことある。わかっていたつもりでもいざそうなると堪えるものがあって、全然まだまだだなぁってなる。

 

 

感じたことぜーんぶひっくるめて、一皮むけたねってなりたいなー

 

 

 

 

みぞおちの痙攣が収まるまで書く日記のようなもの

自宅待機がどれだけ精神に影響するか、身を以て知る

この数年で強くなったと思っていたけど全然だった。

 

どんな時に自分の制御が利かなくなるのか、許せないことはなんなのか、自分の過去をまだ切り離せていないこととか、まだまだ出てくる

多分向き合わなくていいものもあるけどそれの判断も鈍るなぁ

 

公園に集まるだけで十分だと思っていたけど、もしかしたらずっと寂しかったのかもしない。自分なりの精一杯は誰かの米粒かもしれない、でも誰から見ても米粒だったのかもしれないとか、自分で自分のこと追い詰めている。

自信はなくても信じるしかないって思ってやってきたけど自分を信じるにも力が必要なんだなって、なんか本当に久しぶりに感じている

 

今まで生きたきた私、ぜんぶわたしだけど、どの私が好きだったかな。誰といる私が好きなのかな。

この世界で私といる自分が好きだって思ってくれる人はいるのかな。

死ぬまでに誰かのそんな人になれたらいいな

 

想像なんて多分全員思いっきりしている

あまりたくさんのことを同時に考えられないので重なると簡単にプチパニックになる。寝たら少し変わるかもしれないと自分で思えるようになったことは、良いことだ。

 

 

想像できないことがたくさんある。でも、想像できていないことがあることを知っていると知らないとじゃ全然違う。自分が想像できないことをありえないものとして考える人は結構いる。ある面では自分もそうで。誰かから見たら、それは想像していないことになる。

 

当事者にならないとわからないことだらけなんだけど、当事者になれないことだらけでもある。

相手のことを考えるとき、本当はすべて相手次第でこちらには選択肢なんてない。

良かれと思って、あなたのために、が受け入れられなかったときの感情は相手にぶつけるものじゃない。それはそっち(こっち)の問題で、相手に渡すものじゃないのだ。それこそが相手のことを考えていない態度なのではないか、といつも思うし反省もする。

どんなに精一杯やってもできないことがあるし、伝わらないことがある。同じ言葉で話しても違うことを話している。

それを面白いと思えるか、違うことを知りたい、それでももっと話したいって思えるか。私はそれを許容範囲と呼んでいる。そばにいたくてもどうしても苦しくなってしまう人がいたりするのはどうしてか。どうしてかってすぐ考えちゃうけど、ほんと、ただ、合わないの一言なのかもね。

いつか、ほぐれる時が来るかもしれないけど、まだ今はそうじゃない。日々変わり続けるから、うまくいったりだめになったり。そんなことがあっても不思議じゃない。

そう言い聞かせている。言い聞かせることで緩和しようとしているところもある。

私はすぐ、理由が欲しくなるから

 

 

 

突然来た夏休みをそれなりに満喫するには心の整理が必要だ。

一方的なものは暴力的で、だから使い方の訓練をし続けたいと思っている。

今でこそ少しづついろんな方面を見れるようになってきたけれど、自分の本質はとても暴力性(それは一方性ともいう)の高いものだと認識している。そこから出てくる言葉や音楽や行動作られるものすべてはバランスがとりにくい分、依存症の訓練みたいに一生修行し続けないといけないと思っているのはその認識の所為のような気がする。

 

だからこそ、勝手に決めつけたり、強い言葉だったり、自分の思い通りに動かしたいとか、一方的なものをぶつけている場面がとても苦手だ。やったりやられたりして強くなっていくのはわかるけど、自分の置かれている状態がそれぞれ違うことを考えたいなって思うし、あなたと私は同じで違う、だから知りたい……!にたどり着いてしまっていつも傷だらけになっている。それを面白いと思える日とつらいと思う日がある。

 

私のコツを探し続ける、人生は続いている。

 

安直な祈り

こんなものにも意味を見出したかったが、こんなものはこんなもののままなのだ。

もう会えないひとが増えちゃった。嫌われることも叶わない。

友達になれればよかったのかなとか、私は自分を守りすぎていたなとか、後からいろいろ思ったって、それはその人には使えない。祈ることもできない。

 

 

生きていてほしい。きっと私も誰かにそう思われているかもしれない。

元気でいなくては。だから生きないとなと思っている。

 

 

夜明け前の微かな瞼の重さを心地よく感じるための修行

インスタにて、好きな人とやるのは祭り、嫌いな人とやるのは修行って書いてる人がいてあー、確かにと思ったが祭りと思えるほどその気持ちを楽しめてないし、ゲッター氏の占いだと私の命数にはすべてネガティブの星が入っていた。わからんでもない、しかしそんなにもか!とビビった。

 

自分の信じてるものとか、他人から見たらネガティブなのかなー?ネガティブだってあんまり思ったことがないのが本音。両手いっぱいには持ち続けられないから落ちちゃうことは仕方ないし身体は一つしかないからいろんな人のこと同時には守れない。始めるためには終わらせないといけないし、誰だって過去から未来を想像するだろ。

 

自分がどれだけ変わったと思ってるのか自分がどれだけ信用してもらえる動きをしてきたのか、大人になったら無条件に愛されることなんて少ない。そのままでいいって、そのままで愛してくれる人も思いっきり嫌う人も同じだけいる可能性があるって認識できている人だけ使ってほしい。そしてそのままで愛されたいと思っている人が自分だけじゃないことも。

 

誰かを変えるなんて烏滸がましい。だから距離を取ることを選んじゃう。会えてうれしい人はたくさんいるけど会いたい人は少なかった。あぁ、会いたい人がすごく少ないだなって今思った。

いがみ合いたくないし誰とも争いたくない。だから見えない場所に行きたい。

 

不安や苦しさがどんどん症状として出ててなんかあんまりよくない。風船つけて飛ばしてちょっと休みたいな。

厳選された修行

全てが動き出した春の後に5月病になるの当たり前だなと実感。

転職したわけでもないのに転職した並みのいろんなことが一斉に起きていて毎日眠い。

コロナの緩和で全方位がそわそわしているし。そんなに働いてないのに何でこんな落ち込むのかなーと自分の年齢を呪ったりもするけれど、しんどくなるのは実働時間の多い少ない以外のところで起こっているの、そういえば昔からだった。

 

性格の違いにまだ衝撃を受け続ける。それは準備の範囲の違いともいう。よく頑張ったしよく頑張っていると思う。私がマイノリティーだと自分を疑って終わりにしたい時がたくさんあるけど多分そうじゃないし私はそれを吐き出す場所がまだない。考えはいくらでも疑いたいけど、自分の存在を疑いだしたらすこし離れたほうがいいなと思った。

そして私も誰かを追い詰めている可能性がある。もっとうまくやりたいけれどそのへんはまだまだだ。きっと障害があるない関係なくいろんな場面でこの苦しさを感じている人がたくさんいるんだろうな。そういう見えない人の力になりたい。

 

人生は修行だって生きてきたけど、いったん修行辞めたいな、の気持ち

勝手に背負ってたくせにやめたいなんて最高に自分の所為なんだがこれで生きてきてしまったから宣言しないとやめられない。本当にまじめだ。

 

 

しし座と九紫火星のタッグが強すぎてよく生きていると思う。日常のすべて、究極の選択で生きている。やり場のない気持ちは占いに当てはめると諦めやすい。

何にもしたくないんじゃなく何にも考えたくないが正解なんです。

何にも考えたくない。夜ご飯のメニューも相手の気持ちも。

 

そしてこんなのは全部こねくりまわした悪態なのだ。シイタケ占いに今週は愚痴って良いと書いてあったからさ。