春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

真剣さにのまれておしまいベイビーの毎日

どうしても嫌だなってことに関わり続けなくてはいけないって思うとすっごいストレスになってしまうけど、「関わり続けなくてはいけない」がそもそも妄想なんだと。見方を変えたり思い込ませたりしてみてるけど、今は難しいなって思ってていいんだってちょっと落ち着いた。

 

 

昨夜はとてもとても良い夜で、なんか考えてたことがバカらしくなったっていうのもある。

堂々と語れる誠実さをただただ自分がもっていればいいだけのことだった。すぐ忘れてしまう。

余計なものまで抱え込んでしまう癖。

 

生きるの下手くそだけど生きるの好きだから、好きだけど下手くそなひとは絶対に報われてほしい。自分も含めて。自虐はいらない。

 

今週のしいたけ占いの獅子座超絶忙しいって堂々と言われてて笑える。獅子座のみなさんがんばろねー

テリトリーを作った瞬間から責任が生まれる。

まぁ、責任とは何か?って言う疑問はとりあえず置いといて、、、(中動態の世界を何回でも読もう)

一般企業で働けない人たちが集まって会社ができている会社は今の時代多いと思うけど、やり方のベースって変わらないと思っているから押さえておきたい部分は押さえておきたい。と思ってしまう。

でも、もしかしたら本当に働けなかった人はこのベースの意味がわからなかったり、乗れなかったり、どうしても嫌だったり、あるんだろうなぁ…ってのも思うようになって来た。

なってきたんだけど、(言い方はとても悪いですが)障害者の方達の障害者としての誇りみたいなものに対するアンチテーゼがすごい、自分の中の。

そしてそれを弱いものとして存在させる社会の意識も大嫌い。そこに加担している自分のこともこの場所で過ごせば過ごすほど嫌いになりそう。

そうじゃない場所もたくさんあるよ。もちろん、いろんな企業が福祉に関わってきている時代だし、どんどん民間の手が入ってる。私たちだってそう。

 

それでも、世代やしきたりや福祉をやりたがる人の層とかさ、やっぱ偏ってる。ものすごい。

私が今まで過ごしてきた中であんまり出会わなかったタイプの人たち。お金の感覚も作るや売るとか、そう言うものの感覚の違いとかびっくりしている。

福祉屋さんって比喩したりするけど、制度に乗っかって波風立てないようにするとどうしたって福祉屋さんになってしまう。そう言う意味では全体を感じられない誇りなんて今すぐ捨てたい。

 

責任を取りたくない人ほど、テリトリーを作ったり守ろうとしたりする。断言したい。

分断するってことはかけらを持つってことで、一つの塊をたくさんの人で持つよりも、かけらになったものを一つしっかり持たされたほうがかけらの責任は重くはないだろうか?と会話しながら別のことのように考えてしまう。

 

 

私はそんな場所つくらないし、関わる全部の場所を堂々と紹介できるようにしたい。

ステップアップしたい人のお手伝いは全力でやりたいし、それをやることでこっちのステップアップにもなるものじゃないともう残りの人生長くないし勿体無いよな。

変わりたくない人は変わらなきゃいいのよ。私は変わりたいってだけ。

きっと全員そうやって居場所を選んだりしてるんだよね、だから一緒でだから一緒じゃない。

 

 

気づいたらパンを食べている現象に名前をつけたい

小麦を減らしてみよう!の意気込みは何処へやら。ここんところパンのお世話になりっぱなし。そういえば今週買い物も行ってないな……と思って落ち込みそうになったので慌ててスーパーに行ってきた。現在、一家総出(というか私と夫)で疲れているので甘いものを躊躇なく買う。簡単に作れるものも用意する。私は多分、手の抜き方を少しだけ覚えた。迷ったときは迷わない。許す。任せる。そして買ってきた食パンを気づいたら食べている(これは許しちゃダメ)

 

二ヶ月くらい前からせわしい時間がはじまってちょっとずつちょっとずつ慣れていって、お盆が終わってスピード感が加わった。よく占いも見てしまう。もらえるヒントは全部使いたい。それでもまだまだもっともっと急ぎたい。

おわかりでしょうか、私は確実に焦っています。

 

 

全く違う業界に足を踏み入れて思ったこと!     

距離の取り方も仕事の進め方も働く人間としての考え方も場や社会に対する役割とか、全然違ってびっくりしてる。今までの自分じゃ通用しないのを毎日毎日実感しながらそれでも手探りでつかんでいくぞ。って思わなきゃ心が折れるお仕事。

専門性があるものたちに対して専門性さえ持っていればいいと考えている人たちが一定数いる感じ(正確にはこちらがそう感じてるだけなんだけど)。それがわかる二ヶ月。まぁ、どの職業もそうかもしれないけど。。。お菓子や料理とは違う、「正解がある」職業だなって。 (追記  正解があるって書いたけど、正解があるけどないのはどの職業も同じ。それの型が決まっていることが多いなと感じてる)       

慣れるまでの時間をなるべく少なくしたい性格だけど絶対にかかる時間があって、なんかもうやることなすこと全て修行みたいになっている。 

当たり前だけど当たり前じゃない。ほぼ転職したようなものなんだけど、そこらへんは共有できない寂しさみたいなものもあり。共有したいと思っている時点で甘い気持ちを抱きしめているのは感じてるけどそこは許してよっていう甘えじゃ。しゅしゅーん。

ただ、人間とは面白いもので「やるしかない」の状況になるとつべこべいってる暇がまじでない、ということがわかった。悲しんでる暇も妬んでる暇も本当にない。Twitterでよく見る格言まさにそれ!それでもまだイライラしてしまうからもっと突き詰めてけばそれも無くなりそう。     

これを悟りというのかもしれない。

 

場づくりも一からやるのは初めてなのでくっしゃくしゃしてる。まず自分のこの性格は他人と協力して作るとかが向いてないので自分でやろうと思わないようにする事。すぐに不安一色に染まれるから、楽しみだけ意識的に持つ。大変なことも問題解決のモデルにする。こうなったら遊んでやる。子育てと仕事を両立させたい!だれかを助けたい!とか特に思わないけれど、活動に感化されて動きたいと思える人が増えるならいくらでも使ってくれだし、やってくれよ。と思う。

この辺もまだバチバチにコンプレックスを持っている。

 

強くなりたい。って漠然と思っていたけれど、どの部分が弱いのか、何に引っかかっているのか、どんな人と合うのか、得手不得手とか、社会の波に揉まれているおかげて主観すぎずに向き合っていられてる。でも、昔から変わってないのは自分で動いて確かめたい気持ちかもしれないな。

 

 

だから苦しいけど全部好き。

へんな潔癖症

あー、だめだ。って、他人に思う瞬間がある。

一緒になにかやるには、だめだーってとき

 

年上だろうがどんなに偉かろうがそういう判断しちゃう。昨日は顔が怖くなってるっていわれてしまった。

他人を犠牲にして自分を守ろうとする人を見ると冷静さを失いがち。たぶん、そういう潔癖。

他人から見たら自分もそう思われてるかもしれないけど、それでもそうなりたくないって生きてる。

同じだけど同じにしたらおわり

とげとげしてる自分も嫌なので自分の持ち場を全うすること第一に。まだまだ未熟だなー

 

落ち込んだり苦しくなると決まって仕事を休む方を選ぶひとが多いけど、仕事より生きる行為に疲れてることもあるなーって思うし、自分はなにを大事にしてるんだろ?って考えたら今も昔もやっぱり仕事だった。

仕事をしっかりやれてないと自信も持てないしお金の不安も出てくるし堂々と頼ることもできない。だから、自分を大事にしたくなるときに仕事を大事にしちゃう。

でも、一般的には生活と労働は切り離されていて、休養というものをみんな欲していて。

自分を取り戻すときのタイプもいろいろだよねって話。

休んでも繰り返しちゃうときは方法を変えることもありだと思うんだ。

しっかりと良くなることを考えるから時間と方法はたくさん欲しいな。なんかうまくできないかなーって。ひょーん。

 

最近身近なのでいろいろ考えちゃうけど、これは考えても無駄なことは考えない。

何を考えないかのことの方が大事。

 

 

 

すごい自然に、ゆるやかに新しいことが始まって、そうそうこんな感じだったなーと新しいカフェ作ってたときのこと思い出した。

 

そうじゃないかもしれないけどそうかもしれない

少し疲れている。多分。

どれくらいかというと、レシピストという基礎化粧品会社の宣伝のために作られた、土屋太鳳と横浜流星が同棲生活をしているという体で写真やストーリーがアップされているのを眺めてしまうくらいには疲れている。

見終わったあと、何を見ていたんだろうって気分に毎回なる。なるのに見ちゃう。すごい。

画面の前で横浜流星くんの美しさにひれ伏してる。

 

 

 

キャパオーバーを繰り返すことで容量が少しずつ大きくなると信じている。

嫌や苦手と判断するには早すぎる、という判断をしてもいい時がある。

「慣れる」までの時間をやっと組み込めるようになってきたのかもしれない。

 

こういうのって体育会系で人に言うと身体に悪いよーとか言われることもあるんだけど、身体に悪いと判断する人ほどここの思考から逃げ続けていて、そのくせ誰かにやってもらおうとしている感じがして、それに反発したい気持ちもある。逃げることより「そのくせ誰かにやってもらおうとしている」部分が気になっているんだと思う。

ここ数年、場所が場所だったからか身体に良いか悪いかで判断する人と知り合うことが増えてて、弱いことは悪いことじゃないけど、別に自慢になることでもなくて。自分の美学を貫きたいときにそこを越えていかないと進めないって時もあるなぁって

わたしはそれが多いから、そもそものルート選択間違ってる可能性もあるけど。。。

 

欲しいなら動かないと、やらないと手に入らない。それは自分の手を動かす方法だけではなく、やってもらうにしてもその方法を考えて実行しなければ誰もやってくれないというおはなしを信じているし、それしか知らない真面目で不器用でまっすぐな人間がわたしだ。

 

 

と自分で言う人ほど信用ならないのでみなさんはこう言う人には気をつけてくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰宅即カルアミルク

少しある器用さを自覚しているので、

●あー、それなら私できるできる!

●これはたぶん私がやったほうがいいやつだな

●〇〇やってくれませんか?(ここまで回ってくるってことは誰も他にいないのか、まぁたぶんこの中で一番ふらふらしてるんだしやるか)

とかで結局全部やってて何屋さんかわからなくなってる。

器用貧乏と負けず嫌い故の、

なんとか形にできちゃうし、ちょっとできるともっとできるようになりたくなるのが発動してて今はまじの修行してる感じ。

最中は無我夢中だけど、ふと立ち止まった時になんだろーなーって思ってしまう。

他人と比べる瞬間がまだある。できなーい、つらーいって投げ出してみたい。

声を上げられない人というか、声を上げるタイミングがわからない人の声も聴き続けたいな。

できるから平気 じゃないもんね。多かれ少なかれしんどいことはあって、それは多いからつらいとか少ないから大丈夫って話じゃないのだ

 

 

 

何回も思うけど一つのことだけやるのは楽だねーとほんとうに思う(もちろん続けることの大変さを前提にした話)

カフェだけやってたの、しんどいけど自分の居場所として機能してたし、マニュアル化しやすいし、多少は腕に自信あったし、自分で選んだスタッフさんと働けてたし、そういう部分も含めてめちゃくちゃ楽だった。

楽ってことはマッチしてたんだと思う。

 

 

 

行き当たりばったりが苦手すぎる

計画しないことをカオスと呼ぶのは違うと思うけどそこに私が混じった状態はカオスであると言える。

でも、計画しないことをカオスとは呼びたくない。

 

 

 

 

美しいものが見たくてケーキとアイスクリームの写真集借りてきた。

 

 

完成って絶対しないから完成させないといけないんじゃないかな。終わらないから終わりを作るとか。この感じ、なかなか伝わらない。

 

 

めちゃめちゃ胸がきゅーっとなるドラマを見ている。それで精神を保っている。

 

 

二キロ痩せて二キロ太った実話怪談

悪意のない、気づかない、無意識の言動に悲しくなることの無駄さに気づいても反応してしまうのがまた悲しい。

 

 

元気になるってもりもりなんかするとかじゃなくてじわじわパワーがチャージされる感じ。

 

 

あー、諦めきれないことが見苦しかったな。

 

 

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