春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

いつかいなくなるおかあさん

Twitterを辞めて半年、すっかり発信しないことに慣れてしまった。理不尽なことや違和感をポジティブという名の意地のオブラートに包んで瞬時に吐き出していたあの頃に比べて、良いか悪いかはわからないけど忍耐力がついたような気がする。

時間を時間として使い、一日を一日として過ごしている。怒りは少ない。

成長したのか退化したのか、たまにわからなくなるくらいに、私は生活をしている。

 

 

ただ、文章の書き方は忘れてしまっていて、これは全く良くない。

素人だけど下手になっている実感だけあって、この小さな情けなさに情けなくなる。

おもしろい!と思った夢の話がうまく書けなくて(そもそも夢の話なんて面白くないんだけど)、何度も書き直したのにあきらめてしまった。

書かなくなったことに慣れて、習慣というものが一つ減った。まぁ、書かないという習慣が一つ増えたともいえるんだけどね(屁理屈だけは健在)

 

 

なにもかもきっと慣れる。

自分がいなくなっても、大事な人がいなくなってもきっと慣れていく。寂しくないわけじゃないけれどそうであってほしいと願っている。って、表明するときは負けそうになる時。

逃げ出したい瞬間はたくさんあるから、その度に周りにいる人のことを信じるぞ!と決意して信じている。この繰り返しがいつかのしなやかさになると信じて。

私は信じていたい。だから自分が信じたい人のそばにいたい。

 

 

 

傍にいる人にはその人にしかできない役割があるし、遠い空の向こうの愛しい人としての役割もある。たまに会ってほっとしたり、甘えたり背筋を伸ばしたり、それぞれの自分は自分の関わる人によって作られているのだとやっぱり思う。ただの役割を恋だの愛だのと勘違いしていたこともあったなぁと美しく振り返られるようになれたらいいな。

 

何よりも大事な人には思いっきり生きてほしい。欲張っていいならその姿を自分の目で確認出来たらそんな幸せなことはないよなーと思う2020.冬