春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

春に30デニールのタイツを履くこともなく夏が来た2020

梅雨が明けたみたい。

 

8月に入りまんまとセンチメンタルになり、北海道に戻りたくなっている。

戻れないのに戻りたくなるのは、過去に想いを馳せてなんとかひとりで生き抜こうとしているからかもしれない。もちろん、一人でなんか生きられないのは百も承知のことなんだけど、それでも一人は楽で一人は寂しい。

年に数回思い切り一人になりたくてどうしようもなくなる日がある。数年前に比べたら随分減った気はするけれど、すべての声が耳に張り付く雑音になって家族にさえ会うのが億劫になる。余裕がないとうまく振舞えないことがわかってからは、関わる人に申し訳なさを感じながらも誰かのせいにしたい気持ちを抱きしめて、矛盾の世界を作り出してはそれを情けなく思う。

一人になりたいのにそういう時には決まって会いたい人がいたりするし、全てを賄うという欲望に突っ込みをいれ正気を保つ、の繰り返し。。。

これを現実逃避と呼ぶのか、障害と呼ぶのかはわからないけど、私は確実にそうして生き続けている。それでいて、それ以外の時はできるだけみんなと関わりあいたいと願っている。。矛盾の螺旋階段の先でいつかきっと出会えると信じて。

 

そういう、ちぐはぐで歪な愛は形を変えて誰にでもあるのではないのかな。

誰にでもあるだろうこの寂しさや衝動を否定せず抱きしめる人間でいたい。と最近強く思うようになった。家族の縁が薄い分、他人と家族の境目が曖昧で大事の範囲が広いのだ。他の人と話していて感じる違和感は大体いつもそうだった。

大事にしているものの範囲。見ようとしているものの範囲。

やっぱりそこにたどり着く。

 

コロナとは長い付き合いになると理解しているつもりでも実際どう動いていいかわからなくて常に小さなとげが刺さっている。身近な職業に身近な人たちの不安や苦しみが自分には近すぎて私のほうが落ち込んでしまう。

自分の人生が自分だけのことじゃなくなったとき、判断がこんなに慎重になるとは思わなかった。捨て身では失くすものが大きすぎる。そんな瞬間が増えてきた。

当たり前の話だけど、いつ死んでもいいと思いながら精いっぱい長生きする方法を探っている。

 

日々に心身が追い付いていないけれど、ギターを弾いたりやっぱり、自分が思うかっこいいバンドがやりたかったり、作りたいお菓子があったりなりたい自分がいる。

落ち込んだおかげでツイッターやブログに吐き出すのをやめることができてよかったし好きなものの認識を深められた。

自己肯定感は低いけど、それを無理やり高める必要がないと思えて自分的にはとても良かった。

私を奮い立たせるもののきっかけが怒りだとしても、愛で包んで渡したい。

 

 

この数か月を振り返るにはまだまだ全然回復していないけれど、8月が一番好きな月なので日記のようなものを。。

8月が特別なのは自分の誕生日と父の命日と夏の無条件に解放される空気が一気にくるから。それにのまれにいく。わたしはそれが大好きだ。

 

また会えるように日々を生き切るよ。大好きな人たち、どうか元気でいてほしい。