春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

醸していく。

※これはただの羅列である。

 

 

付箋を貼りまくったパソコンが復活した。

なにがよかったとかどれがわるかったとか、わかんない。落ち込んだままでもとりあえずやって、何となく霧が晴れたり靄がかかったりする。

全然動けない日もあって何にもできていないと消えてしまいたくなる。だいたいみんなそうだよって言われて、ならもっと頑張らなくちゃってなって、でも大変だったねって言われて一緒に考えてもらえると力が抜けて、そこで初めて自分の状態を知る。

 

気付きが多い人の人生は豊かかもしれないが、気づきを気づきとも思わないようなただただ目的を目指す人に憧れる。内包されているものはどんなに機械的だったとしても温かいと信じているけどなかなかストイックにできていない。

もっともっとやりたい、それは苦しいけど夢なんだと思う。

今日は壮大さをすこしだけ分かち合った。

 

世のなかには本気でお金がない世界を望んでいる人もいる。上手に制度を使える人と情報が届いていない人の差がすごく大きい。それが悔しい。それぞれがチャレンジできる世の中でありたい。誰もがチャンスとおもえる精神状態であってほしい。善悪のオセロゲームをもっと認めてそこで初めて善悪のことを考えるスタートラインに立てる。

 

自分が関わることで誰かの選択肢も増えればいいなと思っているけどな、どうなんだろ。

愛がないとなんにもできない。そんなのは当たり前すぎることなので確認されるとこれは愛なのかわからなくなる。

がむしゃらさがなくなってきて受け身ばっかりな自分の周りからいつか全員いなくなるのは当然だ。当然さを受け入れようとしている。そっちの覚悟のほうが楽だから。その頑張りに力を使えなくなっている。だからそれでも関わってくれる人に深い愛情がいってしまう。重くなりすぎないように精一杯返せるものを渡したい。

 

選択肢が増えることを望んでいるのに私が一番選択できなくなっていることを誰かに笑ってほしい。本当はそんな軽いものなの。ついさ、深刻になってしまうよねひとりだと。だけど、本当はもっと軽く笑い飛ばせるものなはずなんだ。

憂鬱の花もとびきりきれいに咲かせてうっとりすればいいし、おいしいケーキになるくらいの甘い実をつければいい。料理しちゃえばいい、料理されちゃえばいい。

 

ただの週末もお盆というだけで特別感があって、スーパーのお弁当はどれもパーティーサイズだし、家族が集まっている風景は良い。うらやましい

相変わらず父に会いたい。会いたいというか年を取るたびにその年にあったらどんなことを話したりどんな表情で一緒に過ごしたりするんだろうなーとイメージできない頭で考える。どんどんしっかりしないといけないのに私はお父さんの影を欲しがっている。

 

急にふっと何もなくなってもいい衝動に駆られたり、たぶんみんなしてる。

だから、たまに何にもなくなってもいいなぁって思うんだよね、って言い合えたらいいなー。

 

※これはただの羅列である