春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

すぐそばのこと

私の肌はすぐ鳥肌がたってしまう。小さい頃、悩んで悩んでお医者さんに診てもらったことがあるけれど、高校生くらいになったら治るよって言われて安心したのに今も変わらず鳥肌は立っている。

 

気にしないようにしてる。

病気である/病気ではない

障害である/障害ではない

問いを深め続けてきた。気づいたら、深まっていた。

違うし違わない、同じだし違う。

 

当たり前の話。障害といっても十人十色で、グレーゾーンの話をしだしたら全員もれなくなにかに当てはまる、本当はすぐそばのこと。

結局は個に水をやって栄養をあげて森になる話。

本人が気づいていないこと、周りが決めつけてしまうこと、教育なんて言葉を使うのは烏滸がましいけど、教育とはその人が生きる上で必要なものを適切な量と形で渡すことだとおもっている。大人になった今だから受けられる教育や訓練というものもある。

ただそれを個性と言い切るにはこの世界は追い付いていないので、いろんな場面から各々のアプローチで活動して、それらが敵にならないことだけ意識する。

人間ってすぐ対立しちゃう。やり方が違う時点で自分のやり方以外は専門外なんだからその正義は通用しないのにプロセスを大事にしすぎると同じゴールに向かっているのに許せなくなってしまうのだ。敵を作ると自分も傷つくことが増える。いいことなんてないのに脳が染み付いた判断で身体を動かしている。

 

 

どうしてもうまくいかない、わかりあえない、すっぽりと抜け落ちてしまう、拒否してしまう。頭では考えられるけどまだまだ身体はわかっていない。やっとやっとすこしづつ。まだまだすぐ忘れてしまう。相手のことも自分のことも。

そもそも生活の部分から触れにくく研究されにくい分野なので当事者たちの主観が大きな割合を占めている。

それでも考えることだけはやめたくなくって(というか、考えてしまうことが私のはみ出してる部分だと思う)、わかったつもりは死ぬことと一緒。

存在が近くなればなるほど、仕方ないと思うにはこの先が長すぎて自分には持ちきれないように思ったり、もうやめたいもまだやりたいも持っている。

 

やっぱり、人生は修行だ。

 

自分の話。気持ちを伝えようとするとどうしても泣けてくる。泣くから悲しいとか、笑ってるから楽しいとかそういう判断の仕方に嫌悪感を抱いてしまうのは、その判断によって自分が歪められた感覚を今も持っているからなのかもしれない。本当は泣きながらでも話たいし聞いてほしい。でもだいたい泣くとゲームセットになることが多くてずっとこれもコンプレックスだった。だんだん話さなくなって、人に何かを伝えることをずいぶんと諦めてきた感覚がある。でも、それって単に興味を持ってもらえてないってことでもあるし信頼関係やコミュニケーションの問題もあるし、やっぱり泣くことは一般社会において思考停止にさせるアイテムなんだなーとも思う。で、さっきの教育に戻る。

 

 

凹凸が集まっても勝手に凸凹パズルが組み合わさることなんてない。ありのままを叫ぶなら、そこに意識はあるのか、目的を一緒に持てるのか、たくさんのステージのどこにいるのか、どれくらい動けるのか今の自分をどう認識しているのかとか。

数を集めて勝手に必要な世界になっていくのを眺めるのが好きな人もいるし、それを多様性と呼ぶのかもしれないけれど、仮説を立ててトライを繰り返していく人生が自分は好きだ。デザインする人は必要でそういうものを一緒に考えられる場所を目指している。それをやりたいし、私はそれを多様性と呼んでいる。

この違和感をどうまとめてどこに出せばいいかわからない。

役に立たないかもしれないけど、救われる人もいるかもしれない。 研究者気取りで気持ちよくなれるならもうおいしいお酒を飲んでいるはずだけど、ずっと苦しい。

 

お菓子屋さんも雑貨屋さんも服屋さんも福祉と呼ばれる世界も、関わっているもの全てに希望があるように。

絶望と希望はセットだって信じている。優しさだけじゃない、もっと仕組みとしての人生設計をしたい。

きれいごとを吐き続ける覚悟を。人生は続くんだから。