あまりたくさんのことを同時に考えられないので重なると簡単にプチパニックになる。寝たら少し変わるかもしれないと自分で思えるようになったことは、良いことだ。
想像できないことがたくさんある。でも、想像できていないことがあることを知っていると知らないとじゃ全然違う。自分が想像できないことをありえないものとして考える人は結構いる。ある面では自分もそうで。誰かから見たら、それは想像していないことになる。
当事者にならないとわからないことだらけなんだけど、当事者になれないことだらけでもある。
相手のことを考えるとき、本当はすべて相手次第でこちらには選択肢なんてない。
良かれと思って、あなたのために、が受け入れられなかったときの感情は相手にぶつけるものじゃない。それはそっち(こっち)の問題で、相手に渡すものじゃないのだ。それこそが相手のことを考えていない態度なのではないか、といつも思うし反省もする。
どんなに精一杯やってもできないことがあるし、伝わらないことがある。同じ言葉で話しても違うことを話している。
それを面白いと思えるか、違うことを知りたい、それでももっと話したいって思えるか。私はそれを許容範囲と呼んでいる。そばにいたくてもどうしても苦しくなってしまう人がいたりするのはどうしてか。どうしてかってすぐ考えちゃうけど、ほんと、ただ、合わないの一言なのかもね。
いつか、ほぐれる時が来るかもしれないけど、まだ今はそうじゃない。日々変わり続けるから、うまくいったりだめになったり。そんなことがあっても不思議じゃない。
そう言い聞かせている。言い聞かせることで緩和しようとしているところもある。
私はすぐ、理由が欲しくなるから
突然来た夏休みをそれなりに満喫するには心の整理が必要だ。
一方的なものは暴力的で、だから使い方の訓練をし続けたいと思っている。
今でこそ少しづついろんな方面を見れるようになってきたけれど、自分の本質はとても暴力性(それは一方性ともいう)の高いものだと認識している。そこから出てくる言葉や音楽や行動作られるものすべてはバランスがとりにくい分、依存症の訓練みたいに一生修行し続けないといけないと思っているのはその認識の所為のような気がする。
だからこそ、勝手に決めつけたり、強い言葉だったり、自分の思い通りに動かしたいとか、一方的なものをぶつけている場面がとても苦手だ。やったりやられたりして強くなっていくのはわかるけど、自分の置かれている状態がそれぞれ違うことを考えたいなって思うし、あなたと私は同じで違う、だから知りたい……!にたどり着いてしまっていつも傷だらけになっている。それを面白いと思える日とつらいと思う日がある。
私のコツを探し続ける、人生は続いている。