春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

目が覚めて

夢の中でまで、もっと大事にしてほしい!って寝ている人を揺さぶって喚いていた。
でも、顔は散髪したばかりの父の顔で、寝ている部屋も実家の一部屋。
だけど、娘が側にいて感覚的にも話す内容的にも今の状況…なーんのこだわりがあるのかなぁ。そんなに不安なことがあるのかなぁ。。。

日曜は一日中、風邪を引いた時のように寝ていた。(実際はひどい二日酔い)
二日酔いなんだけど吐き気はなく、身体がみしみしと痛くて頭痛だけがひどい。
吐き気がないのはラムネのお陰かもしれない。かもしれないというか、お陰だと信じている。言ってしまえばラムネ信者である。ラムネの効果がこんなにも大きいのにラムネというだけで伝わりにくくなってしまう現実…。
そんな一日を経て(雪景色を堪能することもなく)昨日、おめでたいニュースを聞く。
喜んだりお祝いしたりを繰り返したいな。と思うと同時に、喜んだりお祝いしたりしていいんだ!って。ここのところ無意識の内に喜ばないようにしていた自分に気が付いた。

正しいか間違っているかどうでもいいといいながら、わたしは決めたがっていた。
答えが欲しいとずっとずっと思っていた。


いろんなひとと話したりいろんなひとを見たり聞いたりする中で、わたしはどうなの?っていつもいつも問い続けていて。
ストッパーをかけているのは自分だし、走らせるのも自分なのだなって。
たまに訪れる魔法みたいな瞬間の、あの時の胸の高まりや感動を忘れられないから、わたしはいつもどんな時も魔法みたいな瞬間を夢見て抱きしめながら生きてしまう。
それがある場面では窮屈になったり、誰かを窮屈にしていたような……振り返ってみて思うことだけど。そうだったのかもしれないなって。

変に縛ってしまう癖があって、今もそうなんだけど、本当は逢いたい人にただ逢いに行ければいい人生なのかもしれないなぁーと。思うよ。うん、思います。

文章は手紙だなぁと、最近、更に気軽に文章として出されている文章を読む機会が増えて思いました。
不特定多数の人に向けたものも、きっと書いてる人は誰かを思い出している。その時あった人、景色、温度。未来とかもきっとそうだよね。
その熱を受けて側が勝手に想像して、勝手に感じて、感動したり笑ったりして。

そうそう、文章だけに限らずね。お料理もケーキも音楽も…届いてしまうから、もっと大事にしたいなぁと。もっと、気を引き締めていきたい。気軽に発信することが出来る分、(自分の考える届けたいことは)届きやすいし届きにくい。
でも、届いてしまう。

あー、今書いていて、これかもしれない。と。「届いてしまうし、受け取ってしまう」だ。
楽しみ方より危機感の持ち方が似ている方が一緒に居やすい説は、好きなものより嫌いなものが似ている方が長続きすると言われるあれと同じようなものかもしれません。

(書きたかったことは夢の話だけなので、なんだか本当に駄文になってしまったけど、思いの丈を伝えることを定期的にやるのは自分の考えを整理する上でも必要だ!って考える派なのでよしとする)