春は30デニールのタイツで

考える、の整理をしたいと思っています。

一秒前は死んでるからこそのはなし

どんなに自由や多様性と謳っても、極論貫くか諦めるかの二択だと思っている。

 

 

貫かなかったのは自分だ。しきたりとか関係ない壊したいって言ってて壊さなかったのは自分だ。

 

当事者になると誰だって冷静には見つめられない。

というか、冷静に見つめるなんていつだってできない。だから自分で進みたい道を決めるんだと思っている。

全ての選択は流れるように自然だけれどすべてに意味を持たせることもできるから、責任とか意思の話になっちゃうのかな。それが自然で普通なら、その時に誰かのせいにして生きたくはないな。

 

いつまでもくすぶるものってあるんだなーと自分にも思うし年下の人からも諸先輩方からも学んでいる。

諦めたほうがいいものは諦めて、絶対欲しいものを手に入れる時にフルパワー出せるようにしたいな。って感覚が効率脳らしい。

 

大事にしているものが違うのはもうすでに前提だと思っていたけどそうじゃなかった話

 

好きなアルバムはHis strange fighting poseとブラックアルバムだった

 

趣味と言い切るには少し重たい自分の趣味について何も成し遂げていないけれど、何にもないままじゃちょっと悲しいから自分のために残しておく、これは私のブログなので。

 

◎音楽編◎

 

ライブは楽しいものだった。2年の空白はブランクでしかなかったけど、それでも楽しかったのはいろんな人と演奏できたうれしさと、なんだかんだ言いつつみんなに会えた楽しさだったのかもしれないけどとてもとても楽しかった。

あんなに無くなってほっとしていたはずなのに結局一瞬で戻っちゃうというか、無くなってたことを忘れちゃってて、初めて会った人に一緒バンドやらない?って誘ってしまうくらい。

 

 

ライブは楽しいものだな。やるなら思いっきり楽しくなりたいな。ライブというのは練習の成果を発表する場なのだ。楽しむためにはめちゃくちゃ考えて練習をしなくてはいけないのだ!!!

この一連の流れをイメージしては「え、今の暮らし方からいろいろ捻出するの到底出来そうもないんですけど!」と毎度挫けるのにこうやってずっとだらだら続けている。

やめる覚悟もなく言い訳作ってカッコ悪いなぁって思いながら足りない頭をフル回転させ出し切ろうともがいていたのがここ5年くらい(うち二年は何も考えてなかったが)

 

そしてまた始まるバンド活動、バンドができるってことは状況的に暮らしの様々な方面も動き出せるってことでもあって(PTAとかPTAとか)、しばらくは頭をパンクさせながら生きる2022だろうと覚悟するけどきっとまた①に戻る。戻るけどそれでもやるなら精一杯やってだめだと絶望するのもよしとしよう。今は良しとしたい。今の自分が現実の今の自分。またやりたくなった時にせめてもの基礎体力をつけておきたいとしみじみ思ったのが二年ぶりにやって思った感想。

 

もう本当に、今回久しぶりにライブをするにあたって自分の老化?退化?に落ち込みすぎたことがひとつ。

歌もろくに歌えないしギターも全然弾けないしワンピースも似合わないし太ったし顔も髪型もどうしよう!曲も作れないし人とうまく話せない!とライブが決まってから自分を意識しだしたらダメなところばかり見えてしまって悲しくなった。そんで仕事も激務でなんかもう辛すぎてもっと誰とも関わりたくなくなってしまった(これは自分の仕事の業種に対する悩みも大きく関係していて、人と関わりたくなくなるのはそっちの影響が大きいのだけど)

せめてもの抗い(車内の熱唱ストレッチスクワットお酒抜きなど)をして諦めを抱きしめて会場に向かったことは多分ずっと忘れないと思う。

 

 

なんでもそうなんだけど、のめりこめばのめりこむほど「やるか、やらないか」と選択の幅を狭めてしまう。集中すればするほど他のことが邪魔になる。そして、それと同じ熱量を周りにも欲しがってしまう。

ずっとずっと緩さや自由さにあこがれ続けていたが多分私は完璧主義だ。

ずっとずっと、作り始める人や夢とか実験とか目に見えないものにワクワクしてみたかった。自分のできることは2~10を作る人で、そんなのは誰でもできるものだと思っていたからワクワクが好きな人に憧れつつその話になる度に自分が何にも出来ていない気がして落ち込んでる時期が結構長くあったなぁ……なんて感慨にふけてしまうくらい、そうだったなぁの話はまた今度にしよう。

 

 

ベルトパンチが好きなこと、思い出させてくれてありがとう。もっと好きに曲を作っていいことも、本当はいろんな人と演奏したいことも、愛のある空間を作りたいことも、そんなことばっかりやっていたいことも、思い出せた。

バンドをやりたいというより音楽を作りたいという気持ちであることも。形は何でもいいこと、ただもっとやりやすくなるために形を使ってること。

 

考え方が結構変わった気がするけど楽しみ方はあまり変わってない気がする。

仕事編も暮らし編も自分編も書いておく。自分の人生を使い切りたい。

 

 

欲望

美味しいお寿司食べたい

美味しい韓国料理食べたい

美味しいケーキ食べたい

美味しくお酒飲みたい

美味しいアジアン料理食べたい

山の中のホテルでのびのびしたい

海の見えるホテルで朝日浴びたい

行ったことない街の探索したい

USJ行きたい

かわいい服を着たい

商店街で食べ歩きしたい

お菓子の試作を飽きるほどやりたい

花をたくさん飾りたい

の家を整えたい

USJ行きたい

友達に会いたい

を自分の思うタイミングで選択に迷うことなくしたい

 

 

とにかく家の中をすっきりさせたい。

お寿司食べたくてスーパーで買って食べても、「美味しいお寿司食べたいな」ってなっちゃって余計モヤモヤすることに気づいたのだ。

わたしのしたいことはそれが何だったとしてもゆっくりと噛み締めてじっくり味わいたいということ。空間を味わって身体に取り込みたい。

味わえる空間を作りたい。結局自分。

結局自分なことを思い知って時々絶望するけど結局自分だから頑張らないとなーとなる。

 

頑張るに戻ってこれるのえらい。でも、それは全部欲望のため。それがすごくいい。そういうのがいい。

 

 

何事も空きすぎると入口が高い壁になる

このブログもそう。

 

読み返すと同じことしか言ってない。読み返すと同じように毎年落ち込んでいた。

そうなのよ、疲れは出るんだよ。誰に言うでもなくじっとしていられるようになったことに少し成長できてるのかなー?と思ったり少し寂しかったりしながらクリスマスも大みそかもあるし一年は終わるし12月は大体節目なんだ、ってしみじみしている。アルバムやFacebookを開くたび【何年前の今日】の写真をよく見ちゃう。

 

久しぶりに会う人との時間も気づいたら二年以上経っていて、噛み締めるのと同じくらい久しぶりと言わなくていい人たちに感謝した。やりたいもやりたくないもなくてただやっているって感じの二年間だったなーと外に出るたびに思う。

コロナでいろいろな活動ができなくなったけど、それはきっかけであって理由ではなかった。良くも悪くも慣れるし忘れるし、やっぱりパワーを使うとそれ以外のことはできなくなる。一日は24時間しかない。人生は終わる。そういうものをもっと感じながら生きたいとも思った。

コロナがなかったら成り立たなかったような人生の転機をひっそり迎えていたなーってのも振り返って初めて感じる。まだ現在進行形ではあるけれど、生き方が変わった感覚がある。

断る理由があることにほっとしたり、SNSをする時間が減ってあれこれ不安にならずに済んでいるのは精神衛生上すごくよかった。あとは睡眠環境と生活環境の整え。。結局適切な適当と暮らすことが大事なんだろう。自分が見ていられる景色かどうか。

 

きっとコロナに関係なく私は情緒不安定で誰にも会いたくなくなるし、しんどくて投げ出したくなる。全部を大事にしすぎて持ちきれないことに気付いているのに、いつも限界からの底力に期待して生きていた。もっと気楽にやれたらいいのに、って何度も思ったし今も思ってる。気楽への道in人生みたいな、すぐ全てが修行に変換されちゃうからまだまだ憧れのままなんだけど

 

人と関わることや人間関係を築くことに気負ってしまうところがある。のかもしれない。

人間関係って、もっとできなくていいし、もっとくだらなくていいし、もっと考えていなくてもいいものなのかもしれないけどそれができない。かもしれないばっかりなのは一般的が分からないから。ただ、いろんな人との関わり合いを見ていたら自分の入り込み方が浮き出る時があって、もしかしたら…と思っているというところ。

どうしても頑張ってしまう。どうしても考えてしまう。どうしても役に立とうと思ってしまう。無意識にそれをやっているので気づいたらぐったりしていることが多くて、支援や他人の人生を想像する機会が増えてそれをより感じている。おかげで自分自身の仮説も増えた。共依存になりやすいタイプだから共依存は絶対嫌だと思う自分になれてよかった。

こんな時に無理やり頑張らなくてはいけないことが仕事と生活だけでいいのは救いだったので、すこしだけ私はコロナに救われた。

もちろん、しんどいことはそれ以上にあったし、メンタルは案の定やられてしまったけど(だから人とどんどん会えなくなったし、SNSもやめたんだけど)、記録に残しておかないと何を考えてどう動いていたのか忘れてしまうから、それはもったいないのでちまちまと少しづつ書き足している。

この世界だからこそ会えた人たちもいて、これからは大事にしたいものを大事にできるように時間を生きていきたいなと思っている。宣言。

 

 

 

 

またこのブログを読み返して頑張ろうってなるはず。ちゃんと自分で自分を元気にしているぞ。えらい。

 

 

 

醸していく。

※これはただの羅列である。

 

 

付箋を貼りまくったパソコンが復活した。

なにがよかったとかどれがわるかったとか、わかんない。落ち込んだままでもとりあえずやって、何となく霧が晴れたり靄がかかったりする。

全然動けない日もあって何にもできていないと消えてしまいたくなる。だいたいみんなそうだよって言われて、ならもっと頑張らなくちゃってなって、でも大変だったねって言われて一緒に考えてもらえると力が抜けて、そこで初めて自分の状態を知る。

 

気付きが多い人の人生は豊かかもしれないが、気づきを気づきとも思わないようなただただ目的を目指す人に憧れる。内包されているものはどんなに機械的だったとしても温かいと信じているけどなかなかストイックにできていない。

もっともっとやりたい、それは苦しいけど夢なんだと思う。

今日は壮大さをすこしだけ分かち合った。

 

世のなかには本気でお金がない世界を望んでいる人もいる。上手に制度を使える人と情報が届いていない人の差がすごく大きい。それが悔しい。それぞれがチャレンジできる世の中でありたい。誰もがチャンスとおもえる精神状態であってほしい。善悪のオセロゲームをもっと認めてそこで初めて善悪のことを考えるスタートラインに立てる。

 

自分が関わることで誰かの選択肢も増えればいいなと思っているけどな、どうなんだろ。

愛がないとなんにもできない。そんなのは当たり前すぎることなので確認されるとこれは愛なのかわからなくなる。

がむしゃらさがなくなってきて受け身ばっかりな自分の周りからいつか全員いなくなるのは当然だ。当然さを受け入れようとしている。そっちの覚悟のほうが楽だから。その頑張りに力を使えなくなっている。だからそれでも関わってくれる人に深い愛情がいってしまう。重くなりすぎないように精一杯返せるものを渡したい。

 

選択肢が増えることを望んでいるのに私が一番選択できなくなっていることを誰かに笑ってほしい。本当はそんな軽いものなの。ついさ、深刻になってしまうよねひとりだと。だけど、本当はもっと軽く笑い飛ばせるものなはずなんだ。

憂鬱の花もとびきりきれいに咲かせてうっとりすればいいし、おいしいケーキになるくらいの甘い実をつければいい。料理しちゃえばいい、料理されちゃえばいい。

 

ただの週末もお盆というだけで特別感があって、スーパーのお弁当はどれもパーティーサイズだし、家族が集まっている風景は良い。うらやましい

相変わらず父に会いたい。会いたいというか年を取るたびにその年にあったらどんなことを話したりどんな表情で一緒に過ごしたりするんだろうなーとイメージできない頭で考える。どんどんしっかりしないといけないのに私はお父さんの影を欲しがっている。

 

急にふっと何もなくなってもいい衝動に駆られたり、たぶんみんなしてる。

だから、たまに何にもなくなってもいいなぁって思うんだよね、って言い合えたらいいなー。

 

※これはただの羅列である 

 

 

 

 

 

 

すぐそばのこと

私の肌はすぐ鳥肌がたってしまう。小さい頃、悩んで悩んでお医者さんに診てもらったことがあるけれど、高校生くらいになったら治るよって言われて安心したのに今も変わらず鳥肌は立っている。

 

気にしないようにしてる。

病気である/病気ではない

障害である/障害ではない

問いを深め続けてきた。気づいたら、深まっていた。

違うし違わない、同じだし違う。

 

当たり前の話。障害といっても十人十色で、グレーゾーンの話をしだしたら全員もれなくなにかに当てはまる、本当はすぐそばのこと。

結局は個に水をやって栄養をあげて森になる話。

本人が気づいていないこと、周りが決めつけてしまうこと、教育なんて言葉を使うのは烏滸がましいけど、教育とはその人が生きる上で必要なものを適切な量と形で渡すことだとおもっている。大人になった今だから受けられる教育や訓練というものもある。

ただそれを個性と言い切るにはこの世界は追い付いていないので、いろんな場面から各々のアプローチで活動して、それらが敵にならないことだけ意識する。

人間ってすぐ対立しちゃう。やり方が違う時点で自分のやり方以外は専門外なんだからその正義は通用しないのにプロセスを大事にしすぎると同じゴールに向かっているのに許せなくなってしまうのだ。敵を作ると自分も傷つくことが増える。いいことなんてないのに脳が染み付いた判断で身体を動かしている。

 

 

どうしてもうまくいかない、わかりあえない、すっぽりと抜け落ちてしまう、拒否してしまう。頭では考えられるけどまだまだ身体はわかっていない。やっとやっとすこしづつ。まだまだすぐ忘れてしまう。相手のことも自分のことも。

そもそも生活の部分から触れにくく研究されにくい分野なので当事者たちの主観が大きな割合を占めている。

それでも考えることだけはやめたくなくって(というか、考えてしまうことが私のはみ出してる部分だと思う)、わかったつもりは死ぬことと一緒。

存在が近くなればなるほど、仕方ないと思うにはこの先が長すぎて自分には持ちきれないように思ったり、もうやめたいもまだやりたいも持っている。

 

やっぱり、人生は修行だ。

 

自分の話。気持ちを伝えようとするとどうしても泣けてくる。泣くから悲しいとか、笑ってるから楽しいとかそういう判断の仕方に嫌悪感を抱いてしまうのは、その判断によって自分が歪められた感覚を今も持っているからなのかもしれない。本当は泣きながらでも話たいし聞いてほしい。でもだいたい泣くとゲームセットになることが多くてずっとこれもコンプレックスだった。だんだん話さなくなって、人に何かを伝えることをずいぶんと諦めてきた感覚がある。でも、それって単に興味を持ってもらえてないってことでもあるし信頼関係やコミュニケーションの問題もあるし、やっぱり泣くことは一般社会において思考停止にさせるアイテムなんだなーとも思う。で、さっきの教育に戻る。

 

 

凹凸が集まっても勝手に凸凹パズルが組み合わさることなんてない。ありのままを叫ぶなら、そこに意識はあるのか、目的を一緒に持てるのか、たくさんのステージのどこにいるのか、どれくらい動けるのか今の自分をどう認識しているのかとか。

数を集めて勝手に必要な世界になっていくのを眺めるのが好きな人もいるし、それを多様性と呼ぶのかもしれないけれど、仮説を立ててトライを繰り返していく人生が自分は好きだ。デザインする人は必要でそういうものを一緒に考えられる場所を目指している。それをやりたいし、私はそれを多様性と呼んでいる。

この違和感をどうまとめてどこに出せばいいかわからない。

役に立たないかもしれないけど、救われる人もいるかもしれない。 研究者気取りで気持ちよくなれるならもうおいしいお酒を飲んでいるはずだけど、ずっと苦しい。

 

お菓子屋さんも雑貨屋さんも服屋さんも福祉と呼ばれる世界も、関わっているもの全てに希望があるように。

絶望と希望はセットだって信じている。優しさだけじゃない、もっと仕組みとしての人生設計をしたい。

きれいごとを吐き続ける覚悟を。人生は続くんだから。

 

プレイリストを作って酒を飲む

大人の遊びだ。

 

 

潮風のアリアのくるり節、最初に聞いたときにびくついてしまったけれど聞けば聞くほど染み込んでくるなぁ(これをするめ曲と呼ぶのだろうな)

 

人生において、リスペクトを表現し続けたいと思って生きているけれど、そもそも表現する土台にも上がっていないのではないかと思う時がある。

頑張りたいともう頑張りたくないは共存する。だから頑張れるのだと思ってもいるけれど。

 

飽きちゃうのでネガティブを一握り持ち続けて飽きないようにしてる。みたいな。

そんないいものではないけど、そんないいものみたいに振舞ってかっこつけている

 

 

恒例イベント、足の裏をみたらびっくりするほどむくんでいた。え。土踏まずなくなった??と思うくらいよ。そして、このむくみを認識したの人生で初めてかもしれない。

 枕と布団がほしい。いや、住んでて落ち着く家が欲しい。。この停滞感がいつも苦手だ。